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甘いスクランブルエッグ

私が大学一年生のこと。
地元の田舎から東京の大学に通うために、併設された学生寮に入寮することになった。新鮮なことが好きな私は、学生寮の古さやうす暗さなど気にもせず入学からの一か月を楽しんだ。
私の家庭は貧乏でこそなかったが、3人兄弟に子供部屋が一部屋ずつ割り当てられない家に住んでいた。父が子供のころに建てた家だそうだ。当時軽く築年数40年余り。何度もリフォームの話が出ていたが決行されず、幼い私は何度も期待し何度落胆したか。私は父と母の部屋をカーテンで区切ったところに、間借りした形で過ごした。それは思春期真っ只中の高校生まで続いた。
そんな暮らしからの家族と離れて一人部屋生活だ。周りの同級がぶーぶー文句を言うなか、話を合わせながらも内心は解放感でいっぱいだった。
入学してからの一か月が過ぎ、ゴールデンウィークが近づいた。母に帰省するように言われていたが、またあの部屋で寝泊まりしたくない私は、課題を言い訳にして滞在期間をできるだけ短くできるようにしていた。母は残念がっていたが、今思っても思春期の娘にとっていくら慣れていたとしてもあの環境で過ごさせるのは酷であろうと思う。
そして帰省当日。帰省いう体験の新鮮さだけが私の心を躍らせた。新幹線に乗る前に人生初の駅弁を買って、乗った瞬間ほおばった。遠出をあまりしたことがなかった私には一種の旅行のようで高速で走る新幹線の窓から見える景色を飽きずにずっと眺めていた。
故郷に近くなった時ふと懐かしさを感じて、なんだか温かい気持ちになったのを覚えている。なんだかんだホームシックになっていたのかなと感傷的になりつつ、早く家族に会いたいと初めて思った。
駅につき、同じように帰省したのであろう人が運ばれるエスカレータを降りると、改札に目をやるとその人たちを待つ人であふれかえっていた。だが、私は母と兄がいるのにすぐ気づいた。母は私を見つけると心配そうな顔で「人多かったけど大丈夫だった?」と声をかけた。まだ上京して一か月しか経っていないのに、なんだか母の顔が懐かしく思えた。
それから祖父母へのあいさつや地元の友達に会う予定を済ませると、あっという間に帰る日の朝になっていた。朝起きて、帰らなければという気持ちともう少しいたいという複雑な気持ちに名前が付けられずもやもやした。
食卓に着くと、母が困った顔をしているのに気がついた。「どうしたの」と聞くと、どこか気まずそうに、しかし笑いながら母が言った。「今日でまた離れてしまうから…。好きな卵焼き作ったんだけど、失敗しちゃった…」
食卓を見ると、卵焼きではなくスクランブルエッグがあった。「きれいに巻こうと思ったんだけど失敗しちゃって。お母さん、いつもこうだよね。ごめんね。」
ふと、今回の帰省してから今までのご飯を思い出した。既製品もあったが、私が今まで美味しいと口にしたものが多かった。野菜が大ぶりの豚汁、味が毎回違う春雨サラダ、そして今朝の砂糖が入った我が家の卵焼き。母は料理が得意な方でない。にもかかわらず、いつもよりも手作りのご飯が多かった。
そんなことを思い出しながら、私はまた母の作った卵焼きを見つめる。砂糖が入っているからか成形に手こずったからか、少し焦げ目がついた甘いであろうスクランブルエッグ。心配そうな母の視線を背に、指定席に座って箸を手に取る。帰省してからなんだか座り心地に慣れなかった椅子が不思議としっくりきた。スクランブルエッグからほかほかと控えめに上がる湯気。湯気と同様に控えめな甘い匂いがした。口にすると自然と涙が流れてきた。
正直、母が卵焼きを成功させているのは稀である。なのに母が困った顔をしている。一人遠くで暮らす娘に、母親として何かしてあげたかったのに失敗してしまったはにかみもあるのであろう。だが、そんな母の顔と甘いスクランブルエッグは、10余年育ててもらった娘にとって、愛情を感じるには十分すぎた。
その甘さを噛みしめながら、“さみしい”という気持ちに気づいた自分がいた。
あれから6年ほど経った今も、私が帰省すると必ず卵焼きが出る。…たまに甘いスクランブルエッグになるのは言うまでもない

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