【第二回】じっくり古都古都 暗澹日記 5日目
誰かが私に望む私と、
本来の私は違うのだということ
1.それで貴方の気が済むのならば、
そして長過ぎる前置きシリーズ。
小生、自分を不幸だなと思うことはあれど、選べる範囲での自分自身の選択の積み重ねでこうなったのだからどういう人生の終わりを迎えようと自分に対する憐れみは結局のところ失礼だなと思うわけですよ。
化物語だったかな?
“正しすぎる人間”について言及しているセリフがあって、“そばにいるとおかしくなる”的なニュアンスだった気がする。
自分の未熟さや愚かさ、此れまでの全てを否定されてるような気になって攻撃的にならずには居られなくなるんだよね。
〚私が毒親だと認識した親を庇った周りの人達もそういう一面があったのだと思う〛
なんかこれ分かる気がするんだよな、私から離れた人達も両親の方を庇った人たちも皆きっとそうだった。それだけでなく幸せそうに見えたほうが誰かにとっては都合が良かったり、問題事は見えないほうが穏やかに過ごせるから。
人間なら仕方ないしそれが人間としての正しい在り方で人間の姿で、だから正しすぎる人間を嫌う人も、私忌み嫌う人もそれは生存本能として正しい防御作用だと思う。
さみしいよ、でもそうあるべきだ
(まるで自分を聖人君子みたいに言うんだね)
そしてその人間のために私を曲げる必要もないんだよね
誰かに愛されたいと思っていたのに、誰かに愛されることで誰かを不幸にしてしまうのなら
誰にも愛されずに自己満足で死んでやるほうがずっといい、
なんて今更カマトトぶりたくなるものだから、
笑えてくる
2.平等院鳳凰堂〜結局どっちもどっち理論〜
渦中に居るときは相手が悪いとしか思えないものである。
私は考えが行き詰まると、人間は生まれながらにしてクズなのだから
最終的にはどうしようもない所に落ち着くなんて極端な結論で片付けてしまう。
例えば、幸せな人間は必ず不幸な人間を生み出しているように、幸せな人間がクズじゃないなんて限らないのだ。不幸に甘えることもそれはそれで堕落でしかないのに、
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