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ベターコールソウル論 マーク・トウェインからコーマック・マッカーシーへ

「ベターコールソウル」は米の大ヒットドラマ「ブレイキングバッド」のスピンオフである。前作の人気キャラ「ソウル・グッドマン」を主人公に据えた前日譚である。

ブレイキングバッドはfrom mr chips to scarface(日本でいうと金八先生がアウトレイジなヤクザになるみたいな感じ)をコンセプトに、主人公ウォルターホワイトが平凡な化学教師から麻薬業界の大物『ハイゼンベルク』へと変貌する過程を描いたドラマである。

それを受けたスピンオフたるベターコールソウルもまた主役のキャラクター設定の変化をドラマの主軸に据えている。
売れない弁護士「ジミー・マッギル」が悪徳弁護士「ソウル・グッドマン」へとなり変わる物語をドラマはシーズンを重ねて紡いでいる。

ジミーからソウル、この変化に落差の感じを視聴者には与えないだろう。たとえば前作ではブライアン・クランストンの名演もあってキャラの変遷は急降下するようであった。

ジミーはもとより小狡い男なのだ。ニューメキシコ図一の弁護士である兄に憧れ、通信教育で弁護士資格を手にしたジミーは、しかしながら生まれついて反社会的な悪性を持っていた。

ドラマは、正義の側に立ちながら同時に抑圧的であるHHM社と、それを受けて生来の悪性を爆発してマッギルの名を捨てるジミーを基軸として、そこにメキシコの麻薬カルテルの極悪一族、サラマンカファミリーが絡むことで殺戮と混沌の世界へと突入する。

このドラマが卓越しているのはアメリカ文学の系譜を継いでいるからだろう。悪知恵を働かせて、弁護士としてサクセスしようと企むジミーはマーク・トウェインのトム・ソーヤーを想起させる。
「トム・ソーヤー」はアメリカの児童文学の最大古典でありながら、教条主義からかけ離れている。マキャベリスティックな少年が強かに立ち回り、財宝を手にする物語なのである。

トム・ソーヤーにとって、大人たちの作った社会なんてインチキなガラクタのようなもので、巧みに友人たちの心を操り、利益を手にすることに彼は微塵も罪悪感を抱かない。

マキャベリスティックなヒーロー像、それはブレイキングバッドにとどまらず、HBOのソプラノズ以降円熟を極めたアメリカのドラマにしばしば見られるキャラ造形である。アメリカ人のdnaにはトムソーヤーが息づいているとしか思えない。

しかし、このドラマは単なるサイコパス礼賛ドラマで終わらない。前述した通りドラマはサラマンカファミリーとりわけラロ・サラマンカがジミーの物語に絡むことで重奏性を帯びるのだ。

ラロが体現するのは無秩序だ。暴力によって相手を服従し、邪魔になれば羽虫のごとく殺害する。この世界観は映画「ノーカントリー」、「ロード」の原作者として知られる現代米文学の巨匠コーマック・マッカーシーの世界を思わせる。(マッカーシーはブレイキングバッドシリーズ同様メキシコとの国境線沿いを舞台とした作品を書き続けてきた作家である。)
そして、マッカーシーの代表作「ブラッド・メリディアン」の中心人物ホールデン判事はこう言い切る「戦争は神だ」

トム・ソーヤーの狡知からホールデン判事の暴力へと、ベターコールソウルは単なるドラマを超えて、アメリカ文学の源流と現在とを結びつける壮大な試みであることは明らかになっただろう。


HHM社の主席弁護士ハワードの象徴的なセリフがある「正義の車輪はゆっくりとすすむものです」これはソウルのキャッチコピー「スピーディージャスティス」と対比される。
チャックも「法は神聖なもの」とジミーを諭す。
しかし、ジミー=ソウルはその言葉を理解できない。トムソーヤーもそうであったように。法律とは彼らにとって、有用なツールとなったらうまく使い、自らを縛り付ける鎖となったらクレバーに掻い潜るものだからである。
そんな彼らの体現する悪性は、ラロのもたらす無秩序に取り込まれてしまう。
鈍重な法の支配よりもクレバーな成功を目論んでも、マッカシー的な混沌の中では無力だ。ウクライナでの惨状は現在進行形で我々にその現実をひしひしと伝える。

ベターコールソウルはその三つ巴の関係性、1法の支配、2マキャベリズム、3アナーキズムをドラマシリーズのフォーマットの中で、巧みに整理して作劇化してしまう。

国境線沿いのカオスに迷い込んだ哀れなトムソーヤーが辿る顛末は、ここではあえて触れないでおこう。ドラマ史上最もウェットでいて、それでいてスモーキーなヒリヒリとした渋みの充満するあのラストシーン独特の感覚を表現する言葉を、僕はまだ知らない。

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