見出し画像

掌編小説「思い出せないキス」



恋人未満の男女である霧島春希(きりしま はるき)と 有紀川みつき(ゆきかわ みつき)が、エレベーターに乗って降りる間にキスについて思いをめぐらせる話です。
約4000字ですから5分程で読めます。

1

今なぜ、ここで
思い出してしまうのか?

“思い出せない”ということを。
確かに掴むことが出来ず、心の中を通りすぎていった、その日の事を。

霧島春希(きりしま・はるき)が、初めてのキスをしたのは中学三年の夏休み。

その彼女とは同じ図書委員で、最初のきっかけは好きな漫画が同じだったことだ。
女子で「スラム・ダンク」が好きって珍しいな、そう思った。新学期になって間もない、五月の緑が力強いころ。
誰もいない図書室のカウンターで長くしゃべった。好きなシーンや、キャラクターについて、他愛もないことを。
互いに意識するようになるのに、たいして時間はかからなかった。

七月のはじめ、梅雨明けの強い日差しが射し込む図書室。本棚に本を並べる作業をし終えたとき、彼女から告白された。
素直に嬉しかった。自分でも笑えるくらいに舞い上がっていたと思う。

初めてキスをした、その日。
夏休みも最後に近い日、彼女の部屋だった。風もない蒸し暑い日だったけど、彼女の部屋はクーラーが効いていたように思う。
あの夏、俺はただただ本能のままに踏み込んでいきたかった。一歩でも早く、大人の男になりたかったんだろう、よくある話なんじゃないか。
大切な彼女の気持ちもお構いなしに。

腕を肩にかけるタイミングとか、目線の合わせ方とか、まるで何かに書いてあるような手順を計算高く踏み、俺は唇を重ねることに成功した。

ただそこに、覚えているのは自分勝手な高揚感だけだった。もしくは達成感というか。ただ、高い山に登ったあとのような。

彼女は、二学期を待たずに転校していった。携帯も変えたのだろう、番号は変わっていたし、メールも届かなくなっていた。同級生に聞いたところ、親の転勤だと。

その時、気づいた。彼女が、いなくなったその時に。

自分がその日の、大切なそのこと、そのたいせつなものを“思い出せない”ことに。
その時、すぐそこにいた彼女の事を。どんな服装、髪型、表情をしていたのか、を。

思い出せない。大切なものであるはずの、互いに触れたであろう感触。重ねたはずの唇も、撫でていたはずの髪の手触りも。

あのキスをした、夏の日。

あれから俺は、どれだけの月日を重ねたのだろうか。

「霧島さん、こっちが早そうです」
私の声に、ハッとしたのか彼はこちらを見る。

私、有紀川みつき(ゆきかわ・みつき)は、まだ少し緊張しながらエレベーターの階数表示を見つめている。

「あっ、そうだな……」
エレベーターがふたつあった。デジタルに表わされる階数表示をみると私の側が先に上から下がってくる。
十九時に仕事を終えた私たちは、近くのビルの五階にある居酒屋に入って食事と、少々のお酒を楽しんだ。
店内は活気に満ちていて、仕事帰りの人間の声が騒がしかった。

「有紀川、また一緒に飲もう」
あのキスをした夜、同僚の霧島春希はたしかにそういった。社交辞令かと思っていたので、三日前に実際に誘われた時はおどろいた。

「互いに遅晩だから、都合が良いかなと思って。家の事とか大丈夫?」
「弟は残業だと言ってましたから、食事は自分でどうにかすると思います」
「よかった。近場は、この居酒屋しか知らなくてさ」
「こんな食事も美味しいとこがあるなんて、知りませんでした。つい注文しすぎてしまいましたね」
「もう少し、静かなところが良かったな」
私は笑顔をつくり、素早く顔を左右に振る。やや熱いほろ酔い加減の頬が、冷やされて気持ちがいい。

(よかったら、また誘ってください……)

上から下がってきたエレベーターが到着して扉が開くのは、勇気を出してそう告げようとしたその時だった。

「ああっ!」
思わず声を出してしまった。エレベーターの中では一組の若い男女がキスをしている。互いに仕事帰りのような服装だ。
女性は驚いたような声をあげて男性から離れる。しかし、男性は何事もなかったかのように、また女性を力強く抱き寄せる。

何、この状況……。
足がすくみ、あわてて霧島のほうをみるが、何事もなかったかのようにエレベーターに乗り込んでいく。
(ええっ、乗るんですか?)
動揺を必死に隠そうとして硬直してしまった。彼は、そんな私に気づくと強引に手をとりエレベーターに引きずりこんだ。

密室に、密着した男女が二組……。
(キスをするからには、この人たちは恋人同士?)
とっても気まずい、気まずいです……

(霧島さんは平気なんですか?)
チラリと彼の顔をみると視線が合う。まだ、私は動揺している。

柔らかい目をしているなと思った。
「どうした?」
なぜ、この人はこうも平然としていられるのか。私はしかめるように目を閉じ、密着する霧島さんの腹を肘で小突いてみる。

ようやく扉が閉まり、男女二組を乗せた密室は下へと動き出した。

すごく時間の長さを感じる。
高校生みたいに動揺してしまった自分をみられたのも、気恥ずかしい。ほろ酔いの体が、汗ばむくらいに内側から、さらに熱くなってくる。

(キスをするからには、この人たちは恋人同士なの?)
もう一度この言葉が、私の頭に浮かぶ。

ああっ、この状況は否応なしに、あの夜を思い出させられる。キスをしたあの夜を。
霧島の唇の感触、抱きかかえられた体の熱さ、体の中を走ったちいさな電流。みんな、はっきりと覚えている。

そして、私たちはまだ恋人同士ではない。

ねえ、霧島さんは私の事、どう思っていますか?
私は、気づかれないくらい、ほんのわずかに体を寄せた。

少し酔っているのか、俺は。体が熱い気がする。

エレベーターはひとつ下の、四階でとまり、先に乗っていた男女はそこで降りていった。

「霧島さん、閉(しまる)、押しましょうよ」
有紀川みつきが、また肘で小突いてくる。こういった動作も可愛らしい。
「あ、そうだな」
ゆっくりと閉(しまる)と書かれたパネルを押す。指先に、硬くひんやりとした感触が伝わってくる。

さっき降りていった、キスをしていた男女。
そして俺は、思い出している。有紀川との、あの夜を。
そうだ、確かに俺は有紀川とキスをした。そして、今日の食事の約束も取り付けていた。
あの夜は、今日よりもっと酔っていたはず。

「あの、霧島さんは、エレベーターでしたことありますか?」
「えっ、したことって……キスのことか?」
すごいことを唐突に聞いてくる女だな。そう思い有紀川の顔を見ると、潤んだ目で、唇を横一文字に引き締めている。
“自分で言っておきながら、言わなきゃよかった”と思っている表情だ。

わかりやすい人だな……。
しかしなぜか、彼女のこういった心の動きに、心惹かれてしまう自分がいる。

「あるわけないだろ、有紀川は?」
「私もないです、ありそうに見えますか?」
「いや……、見えない」
意識して微笑みかけると、こわばっていた有紀川の表情が、落ち着いていくのがわかる。
そのまま、彼女の目を見つめた。

赤いな、有紀川の唇。
頬、……耳までも赤い。
心臓の鼓動が、ほんのわずか、自分にしか分からないくらいに強くなった。
「霧島さん?」
まいったな……、体温があがっていくのがわかる、まさか俺まで赤くなっているんじゃないだろうな。ふうっと軽く息を吐き、密室の天井を見上げた。天井は鏡みたいになっており、体を寄せて立つ二人の姿を反射している。
そんな自分と、目が合う。

そうだな……。
そうだ、また覚えていないんだ。
あの夜の、有紀川の唇。表情。体温。
勢いで……してしまったけど、緊張していたのかな。

覚えていないのは、緊張?酔っていたから?
たぶん、そうじゃない。

覚えていない唇。思い出せないキスの感触……。

「あっ」
上をみていた霧島は、傍らにいる有紀川でも気付かない程の小さい声を出す。

なぜ、今、思い出すのか。閉じた暗闇から、大切な記憶が光となって湧き上がる。

初めてのキスをした、あの夏の日、彼女の部屋。
彼女が来ていた服は紺のワンピースだった。髪はボブヘア―で、右耳の上のほうに確か、赤い髪留めがあった。
それは最初のデートで雑貨屋に入ったとき彼女が気に入り、俺がプレゼントしたものだ。
中学生でも買える安い髪留めだった。
なぜあの日、彼女はその髪留めをしていたのだろうか。

いや、それまでも、ずっとしていたのだろうか。

中学生の俺は、彼女の何を見ていたのだろうか。
なあ霧島春希、……お前は何を見ていたのだ。

「ね、霧島さん?」
また、となりの有紀川の声に現実に引き戻される。
「ねえ、実は酔っているんですか?」
赤い頬をふくらましながら唇をとがらせ、睨むように視線を送ってくる。

いい視線だ。間違いない、俺はこいつが好きだ。はっきりと自覚する。

エレベーターは一階に着いたようだが、なぜか扉は開かない。故障なのだろうか?
視線を合わせたまま、俺は言葉をかえす。
「酔ってないよ」
ぐっと押し付けるように体を寄せると、衣服がずれ合い柔らかな肌の感触まで伝わってくる。彼女の火照った体の熱までも。
さらに視線を強く合わせる。
顔を近づけると、有紀川の全身に緊張が走る。彼女の好意や緊張という感情が、あまりに分かりやすく伝わってくる。

そして、かすかな香水の匂い。
密室にふたり、このわずかな距離を俺が埋めれば……、あとは瞳をおとすだけで。


俺はまた、意識的に微笑み、体を少し離す。
ポンと彼女の頭に手を乗せ、それからエレベーターの開(ひらく)を押した。扉が開いて、外へと視界が広がる。

一目で酔っ払いとわかる男性三人組が、ビルの廊下を駆け寄ってきて、騒がしく入ってこようとしている。
「みつき、出るぞ」
「えっ?」
俺は、きょとんとしている彼女の手を引く。扉が閉まる前にエレベーターの外へと、強引に連れ出す。
「あっ、すまない、有紀川……」

ビルの外に向かいながら、彼女の細くしなやかな、手を引く。
「なあ有紀川、もう一軒、行こう」
「本当ですか?」
彼女の体がふわっと弾んだように見えた。

「ゆっくり飲み直したいな、もっと話もしたい」
「はい」

俺は、ひとつの決意をする。
確かなものを、確かな形にしてから、そこから始めていけばいい。

ビルの外へ出る。夜の町は、人も車もまだ途絶えてはいない時間だ。
ほろ酔いの体に涼しい風が吹いて気持ちがいい。

そして、つないでいる手は確かに熱く暖かい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?