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ヘーゲルのセックス

「乾杯!」
 男三人と女三人はビールグラスを片手に乾杯をした。その日は見知った男三人と女二人に加え、女の一人が連れてきた新しい女がいた。彼女の名は清宮。下の名前は決して言いたがらないタイプだった。この手の女は大概いちいち拘りという名の思想を持っていて非常に面白い。
 「初めまして。清宮です。」
 「初めまして。」
初対面の男三人と女一人は誰が言うともなく言った。僕はその女に初めから何となく魅かれていた。決して容姿が好みという訳ではなく、ものすごく美人かというとそうでもないのだが、佇まいに魅かれていたのだと思う。
 「いつインドに来たんですか?」
 「半年前です。」
 清宮と名乗った女は新しい女性の登場に興奮している男の質問に淡々と答える。この数十秒の間に既に一杯目のビールを飲み干し、自分でウイスキーを注いでいる。
 「え?というかもう飲んだんですか?清宮さん。」
 「あ、はい。どうぞ私のことはお気になさらずにお願いします。」
 「すごく強いんですね。」
 「いえ、そういう訳ではないのですが、お酒は好きでして。」
 「よく飲むんですか?」
 「はい。ほぼ毎日いただいています。」
 僕は彼女のお酒のペースや毎日飲んでいることなどというよりも言葉遣いが気になり、最初の印象と相まって魅かれていった。
 「インドでは何をしているんですか?」
 「日本語学校の先生をやらせていただいています。」
 「教員免許持っているんですね。すごいですね。」
 どうでもいいことだが、僕はすぐに資格や肩書で褒める男は嫌いだ。女に褒められるのは好きだという質でもある。
 「いえいえ。実は教員免許は持っていなくて、簡単なサポートをさせていただいているんです。」
 「そうなんですね。大学では何を専攻されていたんですか?」
 どうにも気になって僕は勇気を出して尋ねてみた。僕は四人を超える集まりがあまり得意ではなく、だいたい誰か面白そうな人を見つけては一対一で話している。それが美女である場合にはよく分からない男のよく分からない嫉妬の対象にされてきたものだ。
 「ヘーゲルです。」
 大学の専攻で学部名や学科名ではなく哲学者の固有名詞を出す人間にあったのはこれで二人目だ。
 「そうなんですね!実は私も哲学を専攻していました。ヘーゲル批判を存分にしていたニーチェやマルクスらの研究でしたが。」
 「ええ?そんな人こんなところにいるんですね!めっちゃ嬉しいです。今までこんな話しても誰も聞いてくれなかったのでめっちゃテンション上がってます。ええ~来てよかった。」
 清宮は偶然の一致に喜びつつ、既に三杯目のウイスキーに手を出していた。ちなみに全てストレートで顔色一つ変えずに飲んでいる。相変わらず姿勢も良く、大人な感じがする。僕はこの時実は既に清宮を気にならなくなっており、世の中の女の一人という程度にしか見ていなかった。理由は単純で、喜びを表現する際の言葉遣いが気に食わなかったからだ。
 「すごいですね。私も滅多に哲学を専攻していた人にお会いする機会はないので、とても嬉しく感じています。」
 僕は余計に丁寧な言葉遣いを意識した。清宮に魅力を取り戻してほしかったのだ。
 「大学の四年間だけ勉強されていたんですか?」
 「いえ。お恥ずかしいながら博士課程まで進んで、実は今も所属しているんです。東京大学の博士課程に。」
 「そうなんですか?私、実は東大で哲学を専攻していたんです。」
 「ええ!!!じゃああのボロボロの研究室にいらしてたんですね。」
 僕はボロボロという言葉には引っかかったが、清宮の言葉遣いが少し戻って安心した。そこから三十分ほど他の男女四人はどこかの駐在員がセクハラをしてきたのだとか、誘われたのだとかお決まりのどうでもいい話を繰り広げていた。
「あ、すみません。仕事で一時間ほど抜けます。」
僕はオンライン会議に出るために別室へと移った。伝え遅れたが、今日は三部屋ある友人宅での飲み会で、親しい友人の家であったため無遠慮に申し出た。
「おお、お疲れ様です。」  
飛田という苗字の女が言った。飛田はかつて銀座でホステスをしていたこともあり、非常に気が利く女だ。気の多い僕はこの飛田にも魅かれていた。正確には飛田の頭と身体に魅かれていた。飛田とは五回ほどお酒を飲んだ程度だが、彼女の思想と常にジムでトレーニングをして維持している健康的な身体に魅力を抱いていた。初めて二人で会った時の会話で、飛田はこう言った。
「私、セックスって誰とでもやりたければやればいいと思うんですよね。」
 「ああ。それ思想としてはとても共感できる。」
 「そうなんですね。私、もちろん知らずにですが、犯罪者の人とお付き合いをすることが多くて、それがきっかけで犯罪心理学をインドで勉強しているんです。」
 「そうなんですね。インドってそういう学問強いんですか?」
 僕は話の方向性が何も読めないなと感じながらとりあえず最適だと思われる質問を投げた。
 「そうんなんですよ。セックスもそうなのですが、こう自分の欲求を抑えられない人が犯罪に走ると思うんです。だからセックスはフリーに、もちろん同意の上ですが、にしたら変にこじれたり、レイプをしたりしないと思うんですよね。」
 「なるほどね。」
 僕は男としてはこの女もフリーなのかどうかが気になってきたが、気持ちを抑えてその後もセックスフリーについて語り合った。もちろんその夜は何も無かった。
 「はい。水置いておきますね。」
 仕事の準備をしている飛田が気を使って水を持ってきてくれた。こういった気遣いをすぐに行動に移せるところが素敵だと感じながら、仕事にとりかかった。仕事は丁度予定通り一時間で終わり、飲み会の部屋へと戻っていった。飛田と男一人がいなくなっており、そこには清宮と家主、女一人と僕の四人がいた。
 「買い出しですか?」
 「いや、用事があるって言って帰っていったよ。」
 「まぁそういうことっすね。あいつらできてんすよ」
 家主がいつも通りの乱暴な言葉遣いで言った。
 「とりあえず仕事おつかれっす!乾杯」
 「乾杯!」
 「清宮さん何杯目ですか?それ」
 「もう分かんないです。」
 僕は、ああ、完全に魅力が無くなってしまったと感じた。
 「ちょっと胸触っていい?」
 もうひとりいた女、坂本が突然切り出した。突然ということも無く、この女はいつも飲み会で女の胸を触りだす。バイセクシャルとのことだが、だったらもう少し抵抗あるものなんじゃないのかなと僕は怪訝に感じながら聞いていた。
 「いいですよ。」
 清宮は間を置かず普通に応えた。
 「わーい。私女の子の胸好きなんだよねー」
 「わーい僕もっすー」
 そう。乱暴な口調の家主も、いつもそうなのだが、女性の胸を普通に触っている。清宮は全く抵抗しなかった。
「わー柔らかーい」
「えー坂本さんもじゃないですかー」
僕は頭が痛くなってきた。こういう行動が始まった時、至って真面目な僕はどう振る舞えばいいか分からず、とりあえずタバコという逃げ道に駆けこむ習性がある。だからタバコは辞められないし、辞めようとも思わない。
 「あーちょっと酔っぱらってきました。トイレお借りしますね。」
 清宮はそう言って家主の部屋のトイレにいき、二十分ほど家主、僕、坂本の三人で飲んでいた。
 「ちょっと長いっすね。僕見てきますわ。」
 家主は自分の部屋を汚されるのが嫌だったのか心配だったのか、部屋に戻った。そこからさらに一時間、僕と坂本は二人でたわいもない話をしていた。坂本は僕と二人になるといつも急に相談しだす。相談と言っても自慢で、このムキムキの男とセックスをしたのだとか、このゲイと仲良くなって同じ男を狙っているけどその男は坂本のことが好きだとかそんな話ばかりだ。
 「隊長!任務遂行してきました!」
 家主が言った。要するにセックスをしたのだということは坂本も僕も感づいた。
 「おお、まじっすか(笑)」
 「はい。ただ僕酒飲むと勃たないので奉仕しただけですが。」
 「お疲れ様です。」
 「でもやっぱ関係がおかしくなるといけないので告白しようと思います。」
 なんだこいつは。何を言っているんだ。と僕は感じた。
 「やっぱり付き合って無い人と身体の関係持つのよくないじゃないですか。」
 「え?もう持ったじゃん。」
 「いやまだ本番はしていないので。へへへへへ。」
 「まぁそうですね。」
 「ではそういうことで告白してきます!」
 「頑張れー」
 何が頑張れなのか訳が分からないが、とりあえず応援した。そこからまた一時間ほど僕は坂本の自慢話を聴くという地獄の時間を味わいつつ、タバコを十本も吸った。
 「フラれました!」
 「え?まじ?」
 「そういう関係にはなりたくないと言われました!」
 「じゃあセフレが良いってこと?」
 「それも断られました!」
 「ん?じゃあ一夜限りということですか?」
 どうでもいいと思っていて黙っていた僕も加わった。
 「いえ、それも断られました!なんか関係を決めるのが嫌いらしいんですよ」
 「あー。ヘーゲルだからですね。」
 僕は清宮が家主に言った「関係を決めるのが嫌い」という表現でまた魅かれてしまった。彼女はレッテルを貼ることに忌避感を抱いているのだ。ヘーゲルを初めとする近現代の哲学者が、神の前提が壊れていく時代の哲学者が嫌っていた関係性への名前付けを彼女自身も嫌っていたのだ。僕はこの時、セックスフリーの女、飛田のことを同時に想いだしていた。彼女に魅かれていた理由も関係性にレッテルを貼らずに欲望に素直に生きたい、また他の人もそっちの方が良いと考えていたからだと今気が付いた。こういった考えはなかなか、とくに女性がたどり着けるものではない。付き合っているのかどうか、結婚するのかどうか、不倫しているのかどうか、ひとつひとつの関係性を明確にしたがる女性は非常に多い。その中でそういった関係付けを嫌う女性に魅かれていただけの話だったと僕は気が付いた。
 
その後坂本も、「これからマッチョに抱かれにいく」という捨て台詞とともにその場を去った。僕は別室で肉欲を楽しんでいる男女と、そこにいる関係性の構築を嫌がる女性、清宮へ魅了されながら、これは小説になる出来事かもしれないと思い、一人パソコンを取り出して文章を書きだした。


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