『鶴梁文鈔』巻3 訳

戦論一
用兵を得意とする者は、必ずその人民の風俗を観察し、その国家の形勢を熟知するものである。形勢と風俗とを踏まえて、兵を用いるのである。ゆえに手をくだすのもたやすく、成功するのも迅速である。そうしなければ、人民の風俗が勇敢であり、国家が堅固に守られていても、兵をうまく用いられないのである。うまく用いられないばかりでなく、逆に災いを招いてしまう。我が国は、長く威武をもって天下に聞こえていた。幕府が開かれて以来、封建体制は着々と整い、三百諸侯は綺羅星のごとく居並び、その守りの堅固なことは、まさに盤石と言ってよい様子であった。さらに人民は多くが生まれつき勇敢で、気風として武事を好み、常に佩刀し、甲冑や弓矢、槍や刀などの武具は皆極めて精巧鋭利に作られ、一朝事ある時は、戦死するのを栄光とし、逃走するのを恥とし、壮烈を誉れとし、臆病を不名誉とした。これが我が国の、どこの国よりも威武なるゆえんである。そして諸外国は恐れて避け、狙おうとしなかったのである。その昔、中国で周朝が盛んであったとき、封建の制をもって天下を維持し、同族も異姓の者も、皆王室の守り手となり、四方の夷狄に侵略される恐れはなかった。しかし、いったん周朝が衰えると、その政治秩序は乱れ、王威は次第に失われ、そのために国内では諸侯が専横を極め、国外では四方の夷狄がのさばり出し、国力を強めていた封建の制が、かえって王室を弱体化させてしまった。これは周が封建の制を用いていても、諸侯を制御することができず、諸侯が王室のために役に立たなくなったからに他ならない。いま、我が国で諸藩が堅固に守り、敵を防いでいるその体制も、それをうまく用いられなければ、やはり諸外国に軽侮され、付け込まれることになるのであり、東周と同様に弱体化するであろう。人民の勇敢で武事を好む風俗は、周にはないものであるが、その風俗を奨励しなければ、やはりそれは用いられなくなり、不満も生じてこよう。そうなれば、我が国は周以上に弱体化するのではあるまいか。

戦論二
用兵でもっとも重要なのは、将帥を得るということである。将帥がそれにふさわしい人物であれば、とうぜん百戦百勝となるであろう。しかし将帥にふさわしい才能があっても、将帥が権威をもっていなければ、士卒は服従せず、全軍に命令してもそれは役に立たない。全軍への命令が役に立たなければ、兵は用いられはしないであろう。将帥が権威をもっていなければならないというのは、それほどに重要なのである。このため、昔将帥を選ぶときは、必ず代々大臣である者を用い、平時には大臣、戦時には武将とした。国内では政治を助け、国外では軍を指揮するのである。周の宣王は召虎方しょうこほう 叔吉甫しゅくきっぽ といった人々を用いて、異民族を平定し た。これらの人物は、皆代々高官をつとめた貴人で、大権を握った者たちである。それゆえに大きな功を立てたのである。しかし世には将帥にふさわしい才能をもった人物というのは、多くはない。代々高官をつとめる貴人から選ぼうとしても、そのような才能の人を得られるとは限らない。ゆえに斉王は司馬穰苴じょうしょ(戦国時代斉の名将)を貧しい家から登用し、漢の高祖は韓信を風来坊から抜擢したのである。そもそも将帥という任務は、貧しい庶民や風来坊がつとめることのできるものではない。しかしながら人がいなければ、庶民や風来坊であっても、用いざるをえないのである。しかしこういった人々は、人が服従するような存在ではない。それゆえ、その権威を重くせねばならないのである。そこで高祖が韓信を登用したときは、吉日を選んで斎戒し、壇を築いて、礼を尽くして韓信を任命したのであり、斉王が司馬穰苴を登用したときは、彼に指揮権を与えると、彼が荘賈そうか (斉の将軍)を勝手に処刑しても罪に問わなかった。このようにして、その権威を重くしたのである。しかしながら、庶民や風来坊を登用するというのも、また容易なことではない。穰苴や韓信は、将帥にふさわしい才能があったから大功を立てたのであり、もし彼らに才能がなく大功も立てなかったとすれば、高祖や斉王は登用を誤ったとして批判されることになろう。ゆえに庶民や風来坊のような者を登用して大権を授けるには、高祖や斉王のように人を見る目を持ち、そして穰苴や韓信のようにそれにふさわしい 人物を得ることができて、初めてうまくいくのである。さもなければ、いたずらに人の耳目を驚かせるだけで、けっきょくは登用を誤ったと批判され、国家をも害するであろう。この点には実に慎重であらねばならない。もし幸いにして召虎方・叔吉甫以上の高位で、穰苴・韓信に劣らぬ豊かな才能をもった者が、天下の人に認められて将帥の任に当たったとすれば、そのような人物は周の宣王・漢の高祖・斉王のごとき功業をなしとげるのではあるまいか。

漢の高祖論
司馬遷は、高祖を寛仁大度であると言っているが、これは遠慮して書いたのであろう。いったい、寛仁大度な君主というのは、たとえ罪がある者であっても、あくまでも許すものである。ましてや功があって罪がない者ならばなおさらである。蕭何・韓信・張良は、皆傑物であった。その功は一生ものであり、この三人がいなければ、漢は漢でなくなっていたかもしれない。しかし高祖は韓信を誅し、蕭何を投獄し、張良に世を捨てて仙人となることを求めるに至らしめた。韓信が反逆したというのは、無実ではないかと後世の史家は疑っている。もし本当に反逆したとしても、そうさせたのは高祖なのであり、彼が韓信の領国を奪い、その爵位を落としたからである。蕭何が民のために田を乞うたのは、宰相の職分であって、賞されるべきでこそあれ、罰せられるべきではない。張良は智謀の人であるから、彼ら二人がこのようにいわれなく罰せられたのを見て、自分にも禍が及びはしないかと恐れて、未然に防ごうとしたのである。この三傑は、高祖に天下を取らせたのであるから、百の罪があっても、それらは許されてよいのである。しかし高祖はかくのごとくに待遇した。その他にも、彭越や鯨布なども、皆大功ある臣であった。にもかかわらず、まだ反逆の証拠が上がらないうちから、反逆の罪で一族ともども誅されたのである。こうして見れば、高祖の苛酷残忍なこと、まことにはなはだしいというべきである。いったい人の心がまえを見るには、貧しく下積みのときではなく、得意の絶頂にあるときの状態から考えるのが良い。高祖は、初めのうちは寛仁大度な様子が往々あった。しかし晩年になると、その残忍な心はついに覆い隠し得なくなった。残念なことである。わたくしはこうも思う。高祖の后、呂后は高祖を助け、韓信・彭越を殺し、高祖が崩御するや、すぐに漢を奪おうとした。その荒々しく乱暴なさまは生来のものであったが、やはりこれも高祖のやり方を、呂后が横で見て、まねたのである。あぁ、高祖は暴虐な秦を滅ぼし、強大な楚を打ち倒し、天下を塗炭の苦しみから救った。その功業は実に夏・殷・周の三王朝以来の立派なものといえよう。しかしその心がまえは、寛仁大度として許すことはできない。司馬遷は、猜疑心深い漢の武帝の時代にあったので、婉曲な書き方をしたのであり、思ったことを正直に書いたのではなかろう。

師の説
周が衰えたのは、学ぶ者の多くが、自分は道を会得していると思い、むやみに大勢の上に立とうとしたからである。ゆえに孟子は、人の憂うべきことはやたらに人の師となりたがることである、と言った。唐代になると、学ぶ者の多くは互いに道義を問うのを恥とし、人の下につくのを嫌がるようになった。ゆえに韓愈は、いまの人は互いに師について学ぶのを恥としている、と言った。この二人の言葉は、当時の悪習を止めさせようとしたものである。わたくしが昨今の師となる人物を見ると、その憂うべきはやたらに人の師となりたがることではなく、人の師となるのを嫌がることである。またその弟子である者を見ると、彼らが誤っているのは、互いに師について学ぶことを恥としていることではなく、互いに師について学ぶことを恥じないことである。なぜこのように言うのかというと、いまの師と言われている者は、口では道を講じているが、心では利しか考えていないからである。ゆえに授業料を高く払う者は、丁寧に挨拶し、積極的に指導する。そして貧しい者に対する待遇はその反対なのである。これは商人同様の、利を重んじる態度で弟子を見ているのである。そして師たるべき術を持っていても、それを尽くそうとしない。これは人の師となることを嫌がっているということにならないだろうか。またいまの弟子となる者は、道を問い疑問をただすべき存在で ある師を、対等な友人と同じように見ている。ゆえに師の教導が厳格で、手ひどく叱りつけるようなことがあると、腹を立てて去り、また別の人を師とする。そしてその師が先の師のように振る舞うと、また別の人を師にしようとする。これは互いに師について学ぶのを恥じないということにならないだろうか。師について学ぶのを恥じるのは、学ぶ者の大きな誤りであるが、恥じないよりはましである。やたらに人の師となりたがるのは、学ぶ者にとって非常に憂うべきことである。しかし師となるのを嫌がるよりはましなのである。さらに昔の師たる者は道を教えることをつとめとするが、いまの師たる者は利を考える。昔の弟子たる者は恥じる心があるが、いまの弟子たる者には恥じる心がない。学ぶ者が誤っており、憂うべき状態にあることは、今日がもっともはなはだしいのである。それならばどうすべきかというと、欲を去る説を唱え、恥を知る気風を作るのが最上の道である。無欲で恥を知る気風があれば、その心は道に対して純粋であり、師が師であり弟子が弟子であることも、完全なものとなるのである。以上、師について説いた。

古くさい言葉を取り払うということ
古文を学ぶ者は、その素晴らしさを学ぶのであり、その言葉を学ぶのではな い。このような態度が、良い学び方とされるのである。いま、古文で特に優れているものといえば、孟子・荘子・春秋左氏伝・史記に勝るものはない。そしてこれらは、けっして先人を踏襲したのではなく、独自の工夫が凝らされている。これを心の霊妙な働きから生まれた文というのである。わたくしは以前芝居を見たことがあった。役者が古今の人物を演じ、その言葉や立ち振る舞いをまね、その忠義心にあふれるさまを写すのは、往々にして思わず感動のあまり涙を流させることがある。しかし終わってから考えてみると、その泣くべきものというのは皆笑うべきものなのである。なぜなら、それらはもともと物まねであって、実あるものではないからである。文を書くのもまた然りである。柳宗元は韓愈の文を評して、世の人のやたらと古人のまねをして、対句を作り、美辞麗句ばかりで中身がない文章は、真の文章家が読んだら大笑いするのはとうぜんのことではないか、と言ったが、まさにそのとおりである。韓愈の文章が孟子・荘子・春秋左氏伝・史記といったものと同等の価値を持つのは、独自性を持っているからである。ある人が、それなら古人の言葉は使ってはいけないのか、と尋ねたところ、 わたくしはこう答えた。そうではない。用いるべきところに用いるならば、けっして害はない。これを自分なりの言葉に直したら、古人の言葉が自分の言葉となるのである。

遠州のはじかみのこと
世では遠州産の薑のうまさを褒めている。わたくしは初めてそのことを聞い て、辛くないのかと思った。しかし噛んでみると、おそろしく辛く、舌も喉も切り裂かれるようであった。そして、こんなに辛いのなら、どうしてうまいと言えるのか、と思ったが、しばらくしてこう考えた。あぁ、わたくしは思い違いをしていた。辛さは薑の性質なのである。辛さがその称美される理由なのである。薑が辛くないのは、武士に勇敢さがなく柔弱なのと同じで、ほんらいあるべき姿とは言えないのではあるまいか。

賢い女は城を傾けるということ
陰陽の気を受けたもので、最大のものは日月である。そして日月の明るさにも強弱がある。雲や霧がいっせいにたちこめ、風雨が強くなって辺りを暗くすれば、日は明るさを失う。しかし一室に閉じこもっていれば、人の顔がわかるていどには明るい光が差し込んでくる。仲秋の夜が晴れていて、空に曇りがないときは、月が一段と明るくなる。しかし林の中に入ると、明るい光は差さなくなり、わずかな先も見えないほど真っ暗になる。このようにして見ると、もっとも明るい月は明るさを失った日に及ばないのである。そしてわたくしはこう思う。男で賢い者は聖人・賢人とされるが、女で賢い者は城を傾け国を傾けることになる、というのは陰陽の自然の理なのである。漢の呂后や唐の武后は、女性でも智謀の持ち主とされている人物である。しかし彼女らはその国を危うくした。当時周勃 (漢の名将)や狄仁傑 てきじんけつ (唐の名宰相)のような人物がいなかったら、漢や唐の子孫はほとんどいなくなり、王室は守り得なかったであろう。あぁ、人の上に立 つ者はこれを見てよく考えねばなるまい。

活版『日本政紀』序
思うに、昨今文物が盛んになるのは、将軍の英明威武によって、天下がよく 治まっていることによるところが大きい。しかし天下の人士は、文物が盛んになり天下が治まっていることだけを知っていて、そのような情勢が、教化の盛んで あることと、秩序が固く守られていることによるものであることを知らないものが多い。ゆえに文物が盛んであり天下が治まっていることについては、それが天運によるものであるとし、もっとも治まって盛んな世にあると思い、安楽怠惰となって世を終わるであろう。そうなると泰平に慣れて、奢侈な風俗となるで あろう。そしてそのような風俗が天下に広がると、教化は衰え秩序は緩むことになるはずである。時勢を察して、そのような事態にならないうちから治世が保たれることを怠らなければ、まさに今日、天下が衰え乱れることを防ぎ得るのである。あぁ、識者はこのことをよく考えるべきではないか。安芸の頼山陽は経国済民の才をもっており、古今の事跡に通じており、すでに『日本外史』と『通議』 を著しており、晩年になって『日本政紀』十六巻を著したが、不幸にして在野のまま世を終わったため、一日として彼が日頃考えていたことが試みられることはなかった。これは実に残念なことである。中西伯基(江戸後期の版元)はこのことについて思うことがあり、活版で右の三書を刊行しようと思い立った。そして『外史』と『通議』はすでに刊行され、広く伝わって久しい。『政紀』はいまようやく成ったのである。伯基はわたくしの序を得て、これを世に伝えようとしている。『政紀』を読んでみると、神武帝から後陽成帝に至るまで百八世、初めから終わりまで二千年、その間の教化の隆衰、秩序の変化、盛衰治乱の交代は残らず記録されている。さらにその間に山陽が日頃思うことを書き加え、その論は痛快で的を射ていると言える。わたくしは、天下に政治を論じる者は数え切れないが、山陽の右に出る者はいないと思っている。『外史』や『通議』は、やはり政治を語る書である。そして『通議』はわずか二、三巻であり、『外史』は何巻もあって規模は大きいが、内容は人の行いの良し悪しについて記すにとどまっており、この二書は『政紀』の幅広く詳細なのには及ばないのである。してみれば、天下の政治を論じる者は山陽に及ぶ者がなく、山陽の政治を語る書は『政紀』に及ぶものがないのである。あぁ、山陽は官位を持っていなかったが、識者がこれを参考にして政治・教化に役立てれば、よく時勢を察して慎重な政治を行い、人士の奢侈な風俗を止め、天下をいやが上にも安定させ、文句のつけようのないものとするであろう。してみれば、山陽の功績だけでなく、伯基の力もまた大きいといえよう。わたくしはこれを記すのを楽しまずにいられない。

活版『東坡策』の序
蘇軾は、意志強く剛毅な気質をもって、雄大で人に優れた才能を役立たせ、誠実で正直な心をもって、経国済民の役に立つ学を修めた。まさに一代の大儒というべきである。しかし当時は百官に人材が少ないため教化がおろそかになり、財政が乏しいため軍隊が弱く、異民族が侵略をほしいままにし、君主も奮励努力して名を輝かせんとする志がなかった。そのために、蘇軾はその心と気質とが一度にたかぶり、慷慨悲憤して、自分でも抑えられず『東坡策』を作ってその志を述べたのである。その心は的を射て明快で、当時の問題を克明にえぐり出している。しかしついに用いられなかったのは惜しむべきことではないか。藤森淳風は『東坡策』から二十五の文を抄出して、活字で印刷し、三巻として、わたくしに序を求めた。わたくしが思うに、淳風がこのようなことをするのは、深いわけがあるのであろう。わたくしは幕府の武器庫の事務を行う小吏であり、天下の大事に預かるべき立場にはない。しかしわたくしなりに考えてみると、東照公が乱世を終わらせ、幕府を開き、大政を執って以来、代々の将軍が公の聡明勇武を受け継ぎ、王室を助け、人民が喜び楽しむ治世をもたらした。その威武なるさまは前代にも勝り、弱体化した宋朝とは比較にならない。しかしながら、法も行われて久しければ弊害が生じ、治世が長く続けば風俗が奢侈となるのもとうぜんのことである。いまは隆盛を極めた世ではあるが、まったく憂うべきことがないとは言えないはずである。しかし世の儒者は機知に富んだ警句を吐くことはできるが、勇敢かつ沈着な才気はなく、いたずらに机上の空論ばかりを並べ、学問の講義では実用を忘れてしまっている。そしていまの時代に必要とされる策はほとんど欠如している。これが、淳風が『東坡策』を刊行した理由である。そもそも、蘇軾が憂えるところは当時のことであって後世のことではない。淳風が行ったのもそれと同様であろう。天下国家に責任を負う者は、蘇軾の策にならい、経国済民実用の学に従事し、これを天下に広げるのである。これが淳風の願うところなのである。さもなければ淳風の志はむだとなるであろう。以上が序である。

温飛卿 おんひけい詩集の序
もっとも高い木に咲く花は、まことに美しい花が、数丈の高さのところから香りを発する。これは見ることはできるが、折ることはできない。もっとも低いところに咲く花は、塵埃にまみれて香りも衰え、折ることはできるが見るべきではない。その中間の、芳しい花の咲いた枝が横たわり、柔らかに垂れているものは、見ることも折ることもできる。わたくしはこれを見てようやく詩を学ぶ方法を悟ったのである。温飛卿(唐代の詩人)の詩は、盛唐の雄渾で力強い作品には及ばないが、その詩句は優美で学ぶべきところがある。盛唐の作品は初学者にとっては、読むべきところはあるが学ぶべきところはない。ちょうど、もっとも高いところに咲く花が、見ることができて折ることができないのと同じである。元明以後の時代にも名だたる作者はいるが、それらは香りの衰えた花というべきである。温飛卿の詩はその中間の花で、見ることも折ることもできるものであろう。そこで友人の淳風と相談し、温飛卿の詩集を刊行して世に行われるようにし、詩を学ぶ者にとって、読むことも学ぶこともできるようにしようと思ったのである。

『玉池社稿』の序
昨今の詩道は、実に荒れ果てている。格調も気品も無視され、ただ浅薄卑俗な様子を、自慢げに見せびらかしている。まことにいや気のさすことである。しかし梁川星巌翁の詩は、昔の名詩人の奥深さを受け継いだもので、その意は世の悪習を一掃するのにある。ゆえに詩を問いに訪ねてくる者がいれば、ねんごろに教導して、その重要な部分がわかるようにする。このため学生たちで玉池社(星巌が江戸で結成した詩人団体)に集まる者が、日一日と増えるようになった。星巌翁の指導を受けた者の詩は、ことごとく格調・気品があり、見るべきもので ある。裕斎 ・雲濤 うんとう(いずれも星巌の門弟)の作品は、その最たるものであろう。先ごろこの二人が同門の人の詩を数首選び、玉池社稿と名づけ、上梓して公開しようと計画した。ある日、裕斎がこの一巻をもってきて、わたくしに序を乞うた。ちょうど煎茶が沸いていたので、それぞれ一服飲んだ、そこでわたくしはこう言った。「そもそも煎茶は、火加減がもっとも難しいのである。火を弱めて炙り、火を強めて煎じる、と人は皆言うが、そのちょうど良い時を得られるとは限らない。ちょうど良い時を得られれば、茶はうまく芳しく、口中も腸内も洗われ、疲れを取り爽やかにすることができ、また眠気を払い元気を回復させることもできる。いま、貴殿を始め門弟たちは星巌翁に親しみ教えを受けている。そして翁が人に教えることの巧みさは、ちょうど茶を良い具合に煎じるのと同様であろう。この一巻がひとたび世に出れば、きっと人の心を洗い潤し、疲れた者の精神を爽やかにするであろう。そして昨今の詩人の卑俗軽薄な風を一掃し、詩道の荒れ果てたのを開拓するのも難しくはないはずである。この言葉を序としてはどうか」と。裕斎は笑ってうなずいた。そこで序を書いて与えた。

『孫子よう』の序
兵を用いる法は、作戦を話し合うときの筋道、兵を出す時の秩序、戦闘、攻守のときの戦略である。ゆえに師があって学ぶものではなく、根本となるものを操るのである。そして胸中で一定の法則を考えている者ならば、常に勝算があるようになるのである。孫子はその法則を詳しく書き記し、その奥義を一巻の中に抜き書きし、精密に分析し、行き届いた記述をしている。これが、孫子が兵家の開祖であり、後世の人がそれに必ずのっとっている理由である。しかしながら、兵法とは機先を制して、思いもかけない方法で裏をかくものである。その変化の急なことは、雷も及ばず、その運び方の迅速さは、鬼神さえも予測しがたい。それにつ いて述べ尽くすことは、孫子でさえもできないのである。孫子でさえ述べ尽くせないならば、兵法は学ぶことでは会得できないであろう。そこでわたくしは思う。学ぶべきものは兵法であり、学ぶべからざるものも兵法である。弓の名手が人に射を教えるには、弓を引きしぼる度合いを重視する。学ぶ者もまた弓を引きしぼる度合いを重視する。腕の良い大工が人に細工を教えるには、必ず物差しを重視する。学ぶ者もまた物差しを重視する。孫子の書は、兵法において、弓を引きしぼる度合いや、大工の物差しのようなものである。それゆえに孫子は学ばないわけにいかないのである。しかしながら、今の人が昔のことを学び、日本人が中国のことを講じるのは、難しいことではあるまいか。わたくしは国史を好んで読み、英雄が兵を用いた記録を見るたびに、それらが昔の名将の兵法と見事に合致しているのに感嘆せずにはいられない。そしてそのことは皆、人が会得し明らかにすることがたやすいものなのである。そこでそのことを簡略に記し、孫子の記すところと合わせ、その要点を書き表して、読者に古今・和漢、いずれも法則を同じくしており、英雄の用兵は、我が国、かの国ともに異なるところがないことを知ることができるようにしようとするものである。学ぶ者はこれによって、孫子一冊を胸の中で鎔化、すなわち金属を溶かすように変化させて、それを用いて兵を語ることができよう。そこで書が完成すると『孫子鎔』と名づけた。あぁ、用兵の妙は孫子とても述べ尽くすことはできない。してみれば鎔化の効用は単なる机上の空論では得られないものである。後世の英雄というべき人物が、この書を熟読して、他日の実用に役立てることができれば、孫子十三篇の奥義、六千二十七字の真理が、胸の中から湧き出てくることになり、わたくしの言葉が誤っていなかったと知るであろう。

『清名家史論』の序
昌平黌の助教である五十川士深いそがわししん は、学問につとめ文学を好む人物である。以前、彼は中国清代の諸家の文集を読み、史論の優れたものを抜粋し、集めて一冊の本 とし、『清名家史論』と名付けた。そしてこれを上梓しようとして、わたくしに序を求めた。これを開いて読んでみると、以前の史書にもまして、世の治乱、ことの得失、人の行いの良し悪しが、その事跡・情勢を深く考え、皆きっちりと分けて事細かに分析し、奥深くわかりやすいものとなっている。その傑出したものに至っては、読者が立ち上がって小躍りするのをやめられないほどのものである。清代の儒者は明代の学者たちが互いに争って弊害をもたらしたのを教訓として、経書の解釈は漢・宋代のものを採用して、偏ったかたちで徒党を組むことはなく、その見識は非常に高い。そして史論に至っては、その時代の要点を巧みに掴んでおり、無理にこじつけた様子はない。あぁ、誰がこのようなさまを見て、満州族の制圧がはなはだしいと言えるであろうか。わが国の近世は、史学が次第に衰え、古今に疎く、周の威烈王がどの時代の人であるかを知らないような者も いる。さらに経書の研究に至っては、古臭く時代遅れなものにこだわって、徒党を組み、同調する者を好んで異を唱える者を嫌い、互いに争う。その学が世に用いるのに適さず、儒者が時勢を知らぬ者と批判されるのももっともである。してみると、士深の行ったことは、学者のために役立つところが少なくないであろう。そもそも清は、これほど学問が盛んであるにもかかわらず西洋人に苦しめられ、国家は滅亡寸前となっている。たとえるならば、高価な良薬を持っていながらそれを飲まず、座して死を待つようなことである。いま、我々がこの書を読んで見識を高め、才智を啓発し、それによって事変に応じた行動をとることができれば、それは薬を助けて効果を上げさせることになろう。この書は単に学ぶ者にのみ役立つものではないはずである。

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