【 説教00 】「神の約束」
これは2021夏、私たちの教会では、” 預言者エリヤ ” をテーマにしてイベントを開催しました。その2日目の2021.8.9早朝礼拝で、私がお話したものです。
私の初めての説教です。何を話せばよいのかわからないうえに、まずエリヤを知りませんでした。当日まで、ひたすら聖書を読んで、ほぼ思いと勢いで話したような気がします。
【 説教 】
はじめまして。私は、4月からサポーターとして参加させていただいてます、ね羊さんといいます。みなさんに、こうしてお話するのは、はじめてですよね。
私は、半年前のクリスマスに洗礼を受けてキリスト者となりました。今年1年は、『御言葉は近く、あなたの口と心にある(申命30:14)』をテーマに、“ 信仰と祈り ” 、このことに思いを巡らせて日々生活を送っています。
今回のディキャンプのテーマは、” 預言者エリヤ ” ですね。このエリヤは、ちょうど “ 信仰と祈り ” について話しをするよい機会なのです。
なぜかというと、エリヤは、信仰と祈りのみで悪と戦った偉大な預言者だからです。
エリヤは武器も防具も使わず、どうしてそのようなことができたのでしょうか。その答えは、エリヤの特徴を見ていくことで少しずつ見えてきます。
エリヤの特徴が何かわかりますか?
たとえば、あなたは、去年はモーセを学んだのですよね。モーセはエジプトから脱出して、約束の地、カナンの地の手前までイスラエルの民を導きました。
エリヤは、モーセのように誰かと一緒にいましたか?
エリヤは、ほとんど一人でしたよね。エリヤは、神からエリシャを弟子にするように言われるまで、ずっと1人でした。
エリヤの特徴は、1人だったということです。
エリヤは1人で、ずっと何をしていたのでしょうか?
残念ながら、列王記を読んでも、エリヤが1人で何をしていたのかは書いてありません。しかし、聖書の別の箇所に目を向けると、エリヤが1人で何をしていたのかがわかります。
それはどこかというと、聖書は、私たちが模範とすべき人は誰だと言っていますか?
そうですね、イエスさまです。
実は、福音書の中でイエスさまが1人で何をしていたかを見てみると、エリヤが1人で何をしていたのかがわかるのです。
「えっ、それはイエスさまのやっていたことで、エリヤのやっていたことではないんじゃないの」と思われる人もおられるかもしれません。
そのときは、イエスさまの言葉を思い出してほしいのです。イエスさまは、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」と言われました(ヨハネ5:19)。
イエスさまは、聖霊の導きに従って人生を完全に歩まれた方です。聖書の中では、父の霊、御子の霊、約束の霊といろいろな呼ばれ方をされますが、これはすべて同じ一つの霊です。
この霊は、男にも女にも、大人にも子供にも、新約でも旧約でも、そして、イエス・キリストを信じる今の私たちにも、みな同じ霊が与えられています。
エリヤは、この霊の導きに従って歩んだからこそ偉大といわれるのです。
ですから、私たちが模範とすべきイエス様が1人で何をやられていたかを見ることで、列王記には書かれていないエリヤのことを知ることができます。
そして、それは同時に、私たちが1人であるときにどうあるべきなのかということを神が示してもおられることでもあるのです。
イエスさまは、1人で何をしていたのでしょうか。いくつか聖書箇所を見ていきます。これは福音書のいくつかの場面です。
イエスさまは、1人でおられるときには、ずっと祈っておられたのです。私たちも、たびたび祈りますよね。説教の後に祈り、献金の際にもみなさんに祈ってもらっています。食事の前に祈ります。しかし、これは祈りのほんの一部です。
ほかにも祈りがあることを知っていますか?
私たちは「天の父なる神さま」って祈りはじめます。これは何をやっているのでしょう。これは呼びかけている、会話をしているのですね。
あなたは、生活の中でお父さん、お母さん、先生やお友だちと会話をするとき、何を期待していますか?
たとえば、こういったことではありませんか。会話をして楽しいときを過ごしたり、学校で何かを教えてもらったり、「この人こういうことが好きなんだ」、「嫌いなんだ」とお互いのことをよく知ったり、ときには落ち込んでいる友達を励ましたり、ともに喜んだり、また、何して遊ぼうかとやること話し合ったりなど。
祈りもこれと同じです。
つまり神と関係をもつこと、交わること、そのすべてが祈りにあたるということです。
たとえば聖書を読む、これは神のことを知ろうとすることですから、祈りにあたります。
礼拝の中でみんなで賛美したり、詩編を読んだりする。これも祈りです。
今、こうやって私の説教を聞いてること。これも祈りです。
家に帰った後に「あの人のお話はおもしろかったな」、「この人のお話は深いな」と思い返すこと。これも祈りです。
「この前の話はこういうことだったのではないかな」とか、「今日は少しわからないところがあったから、先生に聞いてみよう」というように思い巡らすこと、そのすべてが祈りにあたります。
イエスさまが「まず神の国、神の義を求めなさい」と言われるように(マタイ6:33)、エリヤは、1人でいるときに、こうやって常に祈りの中に身を置いていたということです。
そこで今日の聖書箇所を見てください。
あなたは、祈りの姿勢や態度、あり方といったものは聞いたことありますか。ここはそれを表したものです。
イエスさまは、こう言われます。「祈り求めたものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ11:24)。そして、「少しも疑わず」とも言われます(マルコ11:23)。
やもめは、エリヤの言葉を信じました。そして、行動しました。そうして、結果を受けました。この「信じて、行動して、受ける」という順番が、神が決められた祈りのルールなんです。
このことを知らないと、私たちの多くは、祈りの罠にかかります。それは思いだけを育てようとする罠です。
わかりやすい言い方をすると、祈るだけで行動しないということ。
悪い例を見ましょう。
ファリサイ派の人々です。彼らは、イエスさまに対して「あなたが神の子であるというならしるしを見せなさい」といいます。
イエスさまは、病気を癒したり、悪霊を追い出したり、さまざまな奇跡を起こされましたよね。そうやって彼らは、自分たちの隣人、友を救ってもらっておきながら、結果を受けるだけ、恵みを受けるだけで、イエスさまに従わないし、信じません。
悪い人たちは、まず結果を受けようとします。
そして行動しないし、信じないのです。
聖書では、「私たちは神のものをどうやって盗むのか。捧げ物をしないことによって盗むのだ」といいます(マラキ3:8)。
神は心を捧げることを何よりも喜ばれます。
「あなたから恵みを受け取っています」、「あなたに助けてほしい」、「私はあなたの子です」と喜んで捧げる心を喜ばれるます。そして、その心がどのような行動によって表れて来るのかということを喜ばれるのです。
だからファリサイ派のような人々は結果だけを受け取って、心を捧げないからどろぼうって言われます。主の名を悪用して、自分が儲けようとする人々は『強盗』とまで呼ばれてしまいます。
そういう人は、主の日、終わりの日に主は盗人のように現れると言われています。それは、今まで自分たちが神のものを盗んできたからです。
私たちは、そうではなくて、エリヤややもめのように祈ると同時に、祈りの中に身を置くということが大切です。
やもめは、「わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」といいました。そのとき、やもめは、「私たちはこの食べ物を食べても食べなくても死ぬんだ」ということに気づきました。
そして新しいことにも気づきました。「私には無理だけど、神にならできる」ということです。最後の最後に食べ物は、私たちを生かすことはないけど、神の言葉は私たちを生かす。こうやってやもめは入れ替えました。
何を入れ替えたのでしょう?
自分ができることと神ができることを入れ替えたのです。見える食べ物と、見えない御言葉を入れ替えました。そうして、尽きない粉と油を受け取りましたよね。
生ける神は、約束を果たされます。
どうしてやもめは、このような大きなことを信じることができたのでしょうか?
それは日々の小さなことに神に感謝していたからです。だから、私たちも日々の小さなことに対して祈ります。
そうすることで、やもめのように大きなことに対しても信じて、行動して、受けることができるようになります。
そしてやもめが、それをすることができたのは、エリヤが傍にいたということが大きいのです。
みなさん、穏やかな人と一緒にいると穏やかな気持ちになりませんか。
イライラした人といると何だかイライラする。
それと同じように勉強のできる人と一緒に行動していると自分の学力も上がってくる。
言葉の汚い人と一緒にいると自分たちの言葉も乱れる。
信仰の厚い人と一緒にいると、自分も信仰が厚くなります。
私たちは、主の祈りの中で「御国が来ますように」と祈りますよね。やもめには、エリヤを通して御国が来たのです。
イスラエルの民は、焼き尽くす捧げ物対決で一度神を信じましたが、エリヤを通して知った神の傍を離れたため、また不信仰に陥ります。
私たちは、彼らの不信仰から学んで、常に主から離れないようにしなければなりません。
そのためには、エリヤのように常に祈り、そして祈りの中に身を置くということです。だから、私たちは日々の小さなことに対しても神に感謝し祈るのです。
エリヤもやもめもそれをやっていた。
エリヤは人生をかけてほぼ一人で生活しましたが、これは世捨て人になりなさいとか、人々と関係を切りなさいということではありません。
生活の中で1人になって神と交わるための時間を作るという大切さについて教えているのです。
あなたもも、お友だちと登校する人もいるかもしれません。けれども、待ち合わせの場所に行くまでの間は、1人です。そのわずかの間に聖書の言葉を思い返してみるとか。学校の休み時間に何気なく窓の外を見上げて、ふとしたときに、「この前の説教の話はこういうことかな」とか思い巡らせたりする。
そのとき神は喜ばれます。
そういう時間を少しずつ増やしていくこと。一番いいのは朝起きたとき、夜寝る前にその時間をつくること。しかし無理する必要はありません。自分のペースで、自分のリズムでやっていくということです。
今日は、あいにくの雨ですけれども、エリヤの学びの最終日としてはふさわしいと思いませんか。エリヤの話では、干ばつの終わりに雨が降りましたよね。
それは、イスラエルの民が悔い改め、多くの人が主のために祈ったからです。新約聖書では、バプテスマのヨハネはエリヤだと言われていますよね。
エリヤの悔い改めがあって、イエスさまの十字架の贖いがあって、聖霊の雨、ペンテコステがある。エリヤの雨は、新約聖書のペンテコステを預言する雨なのです。だから、雨が降る度に思ってください、「聖霊さまが降り注いでいるんだな」と。
使徒言行録でペトロは、生まれつき足の不自由な男の信仰を確かめてこう言いました。「わたしには金や銀はないが、わたしにあるものをあげよう」(使徒3:6)。
そうして男は足が癒されてペトロとともに神殿の中に入って行きました。男は、金や銀よりもっとよいものを受け取ったのです。
外の広場でイベントを遊べなかったのは残念ですが、この雨は、みなさんにもっとよいものをくださいますよ。
お祈りをしましょう。