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映画『こちらあみ子』、素晴らしい傑作。

好奇心が強く、気分屋で、好きなものにはとことん、そうでなければ目もくれない。


小説の中のあみ子がそのまま本から飛び出したかのような、大沢一菜演じるあみ子はもう素晴らしいの一言で、わたしは彼女の一挙手一投足に完全に心を奪われてしまった。

このなんとも言えない不思議な気持ちは何なんだろうか。まるで自分のなかのあみ子のような存在が、こころの奥底から呼び起こされ、久しぶりに意識に登ってきたかのようだ。

あみ子に出会えてうれしい。そしてどこか懐かしく、ものすごく愛おしい。言語化するのが難しいけれどさまざまな感情が湧き起こる。

原作は芥川賞作家の今村夏子のデビュー作。 
原作の持つ雰囲気そのままに森井勇佑監督は見事に映画に昇華させている。

あみ子の周囲は急速に変化する。母は気力を失い、兄は不良になり、父親は見て見ぬふり、家族は音を立てて崩壊していく。あみ子自身も枠からはみ出た自由の象徴、いじめの象徴となっていく。その様を見るのは本当に辛く、自分自身の一部をもぎ取られるような感覚だ。

終盤に訪れるあみ子の境遇を考えると無念でやるせない。そして綺麗事で済まされない現実に圧倒的な無力感を感じるのはわたしだけではないだろう。

しかしこの作品がどこまでも上品で優しく感じられるのは、原作を含め映画の送り手たちのあみ子への優しい眼差しにあると思う。

送り手はあみ子を色眼鏡でみることなく、名前のある型に当てはめるようなことはしない。押し付けもしない。あくまでも彼女の存在を文字や映像、音楽で表現し、彼女を見守る。

曲がりくねった近所の帰り道、海沿いの通学路、海と山に囲まれた自然豊かな風景、虫やカニ、ヘビといった生き物たちもあみ子を見守っているかのよう。

青葉市子の「もしもし」は彼女の存在そのものを肯定し優しく彼女を包み込む。

お互いを尊重し自由に生きられる、境界線のない世界があればどんなに素敵だろう。

「こちらあみ子、こちらあみ子、応答せよ、応答せよ」

あみ子のこの呼びかけに答える人は必ずいる。少なくともこの物語の送り手、受け手、あみ子に関わる多くのひとが彼女からの連絡を待っている。

映画の最後にはあみ子は海へ辿り着く。
母なる海に手を振る彼女の表情にわたしは希望を見い出した。

そう、

あみ子はきっと大丈夫。

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