2022年8月24日の備忘録〜ミイラ取りがミイラになった映画監督の『地獄』
午前中は心療内科でカウンセリング。前の患者に30分近く待ったのに、俺の番になると5分ほど話を聞いて終わり。この先生は俺の話を親身に聞いてくれない。工場のコンベア作業と同じようなノリで、次々と来る患者を部品か何かと思ってるのかもしれない。薬だけ処方すれば良いと考えてるに違いない。3度目の転院をするべきかも、と悲しい思いをしながら病院を後にして渋谷へ移動。
渋谷のBunkamuraル・シネマで開催されてたロミー・シュナイダー映画祭で『地獄』を鑑賞。言うまでもないことだが、中川信夫や神代辰巳、石井輝男の『地獄』のことではない。これは巨匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾーが撮影に取り掛かって製作っ中止になった『L'Enfer(地獄)』の全貌を、膨大に残されたカメラテスト映像とインタビューによって全貌を解き明かすドキュメンタリーだ。
この映画の存在は10年前に知っていた。高橋洋と稲生平太郎の名著「映画の生体解剖」にてこの映画を取り上げており、「誰の心に容易く生じる嫉妬や妄執」を映像化する途方もない企画で、監督の横暴に近い撮影により頓挫した経緯は知っていたし、「映画の生態解剖」を素にした映像コラージュ『映画の生態解剖ビヨンド』にて、線路に縛られた裸のロミー・シュナイダーが機関車に轢かれそうになる強烈なシーンは見ており、「一体どんな映画なんだ?」と疑問が喉に刺さった魚の骨のように残り続け、遂にその全貌に合間見えることができた。蓋を開けてみれば、クルーゾーの病的なまでの執念が画面いっぱいに広がっており度肝を抜かれた。
劇中でモンタージュされるテストフィルムに、観ながら思わず「どうして完成しなかったんだ!?」「出来上がってたら傑作になったはずだ!!」と叫び出したくなるほど、刺激的な映像がバンバン登場してブチ上がる。変幻するカラフルな照明効果、特殊なレンズや鏡を用いたトリッキーな映像がもたらす悪夢的感覚に圧倒される。原色に近い色彩設計にジャッロやケネス・アンガーの映画を連想せずにはいられない。
ロケ撮影パートも溜息が出るほど素晴らしい。渓谷に架かる鉄橋、その下を流れる湖、その湖畔に建つホテル。それだけで映画的だ。クロード・ルノワール、アルマン・ティラール、アンドレアス・ウィンディングといった、フランス映画界を代表する名カメラマン三人体制の撮影による、ロミー・シュナイダーの美しさを讃えた神がかり的なショットがいくつも登場し恍惚。
『L'Enfer』は、キャスト・スタッフ・ロケーションと全てが完璧に揃い傑作になる可能性を秘めていたが、ご存じの通り完成しなかった。限られた日数でのロケ撮影などの要因もあるが、最大の戦犯は監督のクルーゾーだろう。見事なショットを撮るために、クルーゾーは現場で粘りに粘り、カメラの脇に佇んでどう撮るか悩む時間も増え、スケジュールはどんどん遅れていった。撮影プランの話し合いは寝る間もなく繰り広げられ、撮影では何度となくリテイクを連発したことで、スタッフとキャストを疲弊させ
た。革新的な映画を撮るために、ヌーヴェルバーグ全盛期において古臭いと思われたコンテ至上主義を貫いた、クルーゾーの頑固さも敗因の一つだったのだろう。妄執を巡る映画は、パラノイア的な執念と完璧主義によって、破綻を迎えてしまった。「ミイラ取りがミイラになる」とはまさにこのこと。未完に終わるのも当たり前。とてもじゃないけど付き合えきれない。
ただ、『L'Enfer』は完成しなかったことも一興ではないかと、本作を観終わった後で思わずにいられない。映画が日の目を見ないことを喜ぶのは不謹慎な物言いかもしれないが、革命的な作品になる宿命だった映画が未完で終わり、「完成したらどんな映画になったんだろう」と映画ファンたちの想像力と興味を刺激し、映画史で語り継がれていくのもロマンではなかろうか。ホドロフスキー版『DUNE』がその代表例だろう。一方では、同じく何度もトラブルに見舞われ“呪われた映画”と揶揄されながら、何とか完成に漕ぎ着けた『ポンヌフの恋人』や『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』もあるが。
10年越しに観ることができた映画の感傷に浸りながら、山下本気うどんで夕飯。白い明太チーズクリームうどん、ミニカレーセット。うどんとカレーの炭水化物ダブルパンチに加えて、クリームがコッテリで思った以上に満腹。美味しかったけど、リピートするほどの味ではなかった。デブ促進飯。
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