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鑑賞本数で語られる世界

一応映画ファンを名乗らせてもろてます。
評論家やyoutuberのレビューなどを読んで「映画界隈」の様子を端からながめると、ある特性に気付く。

映画鑑賞本数”が自己紹介になっている。

年間で新作は120本、旧作は200本です!

(え、ほぼ1日1本ペースで映画観てるやん、こいつやば)
多くの人はこんな感想だろう。

本数が多ければそれだけ映画にかける時間と費用が多く、また知識も豊富となる。
映画ファンとしてはより「上位者」ということになる。

数字の功罪

映画愛を語ったところで、愛は数値化できない。
その点、数字は客観的で主観が入る余地はない。極めて便利だ。

もちろん負の側面もある。
そもそも鑑賞本数は指標にすぎない。サクサク飛ばして本数を稼ぐことだってできる。
ひとつの作品を繰り返し観る人は不利だし。

それに数字は残酷なまでに差異を突きつけてくる。多いと少ないのコントラスト。
そして生み出される序列化、少ない者への排他的措置。

ポジションを数字で語る違和感はおそらくみんな感じつつも、他に適切な指標がないから用いられて、いつしか数字の影響力は広まっていく。

数字と芸術

数字を持っている人はえらい、それは間違いない。

でもあえてカウンターパンチをくらわすなら、「数字は芸術にはそぐわない」という論理だろうか。

芸術で大事なのは質であり、思い入れであり、感性、感動だ。
だから芸術は数で計れないよね、優劣をつけられないよね。
とか言ってみたり。

映画は芸術だ、爆発だ!


私の鑑賞本数などたいしたことないので、数の論理の前では圧倒的敗者なわけです。
なので、高尚な論理を展開してみた。

すきな映画を2,3本挙げることができて、「このシーンがすきだ!なぜなら、、」という語りができればそれはもう立派な映画ファンなんじゃないかな。

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