Valkan Raven #1-1

 #1

 1-1

 ――身体が、生臭い。――
 数十分前にクラスの女子達に振りかけられた牛乳の臭いは、公園の水だけでは取り切れないようだ。
 鴉夢桜魅姫(あゆおうみき)は空を見上げた。胸まである湿った黒髪が重々しく風に揺れる。歳に似付かない豊乳を持った容姿は小柄で決して醜くなかったが、色白の顔に付いた大きな焦茶色の瞳に、感情というものが欠落してしまっている。
 所々に白い染みが付いた制服は、胸部とスカートにチェック模様のプリントが施されている。噂によると現在日本国中で流行っている超大人数のアイドルグループに肖って、今の底無しの不景気と少子化から生き残る為に、とある私立高校が今年から取り入れた物らしい。
 可愛い紅色のスカートを乱暴に掴んで水を絞り、水飲み場を離れてベンチに座ると、魅姫は隣にある満開の桜の木を目に映す。4月の初めで散る気配の未だ無い花達は大変見事な色をしていたが、彼女はそれをちっとも美しいと感じる事が出来なかった。
 灰色のビルに囲まれた、日本の首都にある小さな公園。少し先に行くと有名な繁華街があるが、いつも人混みに溢れており気分を害するので足を運べない。
 中央の柱時計が午前11時を知らせる鐘を鳴らす。まだ午前中なので、人の気配は疎らにしかない。
 木々が風に煽られる音が響き、穏やかな時間が過ぎていく。しかし魅姫はこの空間に平和というものを感じない。退屈という幸せを感じる事も、今はまったく出来なかった。
 ――私は独りぼっちだ。妄想ではない、本当に独りぼっちだ。
 私の両親は離婚する時に、共に私を引き取る事を拒否した。お互いが私を「いらない」と言ったらしい。それ以前に私は親と過ごした記憶が殆ど無い。写真すら産まれてから今までに数枚しか撮られた事が無い。
 裁判所がそれを認めなかったから結局母親の戸籍に入ることになったけど、母は私を遠縁の親戚の家に預けたっきり一度も会いに来ない。私よりも必死になって繋ぎ止めた弟の方が可愛いのだろう。弟に「姉さん」どころか名前を呼ばれた事すら一度も無かった。
 親戚の人間達は世間体しか気にせず、余所者を目の敵にするので生き地獄しか感じなかった。常に幽霊のようにならないといけないあの家にはもう居たくない。こんな状態を隠すのだけに必死になりすぎて、友達が1人も出来た事がなかった。
 このどうしようもない孤独感を少しでも軽くしたくて、母親が送ってくるお金を使って入った私立高校でも、入学式が終わった途端に仕打ちを受けた。私は胸が大きいけれど、そのせいでよく同性から理不尽な苛めをされてしまう。こっちはいつも何もしないのに、どうしていつも他人にそうされるのかが、ずっと理解出来なかった。
 もう良い。いつもこうなのだから、もう何もかも諦めた。もう良い、もうどうでも良くなった。
 …………生きる事すら。――
 無意識に向けた目線の先の電線に、カラスが1羽停まっている。人間の子供程の大きさがある巨大なカラスは、魅姫の姿を少しだけ見つめると、狭い都会の空に飛び上がる。
 公園の近くを通りかかった親子が、カラスの姿を見るや否や「怖い怖い」と騒いでいる。その近くでは掃除をしている老人が、カラスを一瞥して舌打ちをしていた。
(何アレ。あの人達、馬鹿なの?)
 魅姫は無機質な瞳に他人達を映すと、直ぐに天空を舞うカラスを目で追いかける。巨大な鳥は大きな鳴き声だけを発すると、灰色のビルの陰に姿を消した。
 ――私はまるであのカラスみたい。その容姿だけで、決め付けることが大好きな人間達に勝手に嫌われているカラスだ。
 彼は彼女は、ただそのように産まれて生きているだけなのに。その黒い体を見て不吉な悪魔の化身だと決め付けたのは、人間だけだ。
 私は人間が大嫌い。少なくても、私の周りにいる人間達は皆大嫌い。
 あのカラスは、人間達の街の空を飛びながら何を考えているのだろう。もしそんな人間達を見下しながら優雅に自由に飛んでいるのだとしたら、
 私は何もかも捨てて、あのカラスみたいになりたいな。――
 魅姫は鞄からスマートフォンを取り出すと、ブラウザのアプリをWクリックする。適当に思い付いた単語を検索して宛てのないネットサーフィンをするのが、彼女が唯一知る現実逃避の方法だった。
 慣れた手付きで検索欄に『カラス』と入力すると、感情の無い瞳が携帯電話の画面を凝視する。
 一覧に並んだホームページを適当に開いて閲覧する。カラスの習性と種類が書かれた辞典ページ。神話に登場するヤタガラスを扱った論文ページ。カラス除けの作り方が書いた農業ブログに、カラスグッズの専門通販サイト。カラスを擬人化したらしい半裸少女の2次元イラストは、画像が開いた途端にページを閉じた。
 小さな溜息を数回吐くと、次の検索対象を探す。横にある桜の木が目に付いたので検索欄に『桜』と入力していると、
 午後12時を知らせる鐘と共に、背後から大袈裟な叫び声が聞こえてきた。

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