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『ビリー・ザ・キッド史料アンソロジー』目録

年内に脱稿予定の『ビリー・ザ・キッド史料アンソロジー』に関する紹介です。まずどのような内容が収録されるのか。基本的にはビリー・ザ・キッドと同時代に生きていた人々が書き残した記録を翻訳してまとめます。

なぜこうした記録が重要なのでしょうか。パット・ギャレットが書いた『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』はあくまでギャレット、もしくは代筆者のアプソンから見た一面的な記録でしかありません。ビリー・ザ・キッドの史実に迫るには、できるだけ多くの史料を比較検討しなければなりません。そこでビリー・ザ・キッドの史実に関心がある人のために以下の史料翻訳を収録予定です。『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』と合わせて読むと、ビリー・ザ・キッドについてより理解が深まるでしょう。

ビリー・ザ・キッドについて概要が知りたい方はまず以下の映像による解説で学べます。登録不要で無料視聴できます。広告もありません。

「ビリー・ザ・キッドと西部」1、民衆的ヒーロー

「ビリー・ザ・キッドと西部」2、生い立ち

「ビリー・ザ・キッドと西部」3、リンカン郡戦争

「ビリー・ザ・キッドと西部」4、ウォレス長官の介入

「ビリー・ザ・キッドと西部」5、ビリーの死

上記の映像は、勉強会用資料「ビリー・ザ・キッドと西部」をお手元に置いて視聴すると便利です。


パコ・アナヤ著『ビリー・ザ・キッド、最後の日々』

原題は『I BURIED BILLY』。1989年のことである。ビリー・ザ・キッドの死の現場に居合わせたパコ・A・P・アナヤ(1862年生まれ)の息子であるルイス・アナヤは、ビリーの最後の日々について父が残した記録があると語った。ギャレットによって射殺される前の数週間、ビリーはアナヤとともに過ごしてさまざまなことを語ったという。アナヤがビリーとの会話を紹介するという形式で展開する。原文はスペイン語。

もともと公刊を考えて書かれた記録ではないので話の筋道や文章の整理が不十分な点がある。また保存状態が悪かったせいか判読不明の部分もある。ただビリー本人が語った言葉を直接読めるという点では非常に貴重な記録であり史実の考察に有用だと言える。

序文

第1章 1878年8月、私はビリー・ザ・キッドに会った

第2章 1881年5月16日、ビリー、リンカン郡戦争について語る

第3章 1881年5月18日、ビリー、リンカンからの逃亡について語る

第4章 1881年5月19日、ビリー、逃亡と判決について語る

第5章 5月18日、郡庁舎からの逃亡

第6章 5月18日、フォート・サムナーへの旅

第7章  パコによるビリー・ザ・キッドの説明

第8章 私が知っているパット・ギャレット

第9章 ジョー・グラントの殺害

第10章 チザムとの決着

第11章 スティンキング・スプリングスへの道

第12章 オフォラードの殺害

第13章 ボウディーの殺害

第14章 サンタ・フェでの収監

第15章 ビリー、メシラで裁かれる

第16章 法廷記録

第17章 ビリー・ザ・キッドの殺害

第18章 バーンズに対する批評


ジョン・ポー著『ビリー・ザ・キッド、死の真相』

作者のジョン・ポー(1851年生まれ)はリンカン郡の特別保安官補佐に任命されていた人物であり、ビリーの殺害現場に居合わせた。ギャレットが引退した後に保安官に選出されている。ビリーの死について数多くの問い合わせを受けたポーは、自らの回想をまとめて1919年に発行した。

ビリー・ザ・キッドの殺害時について書かれた数少ない記録であり、ビリー・ザ・キッドの死に関する史実を考察するうえで外すことができない史料である。

序文

第1章 緊迫した事態

第2章 追跡

第3章 フォート・サムナーの偵察

第4章 1881年7月14日夜の不思議な一連の出来事

第5章 審問検死と埋葬

第6章 補遺と所見

結辞


ジョン・P・メドウズ『ビリー・ザ・キッドに関する私の個人的回想』

ジョン・P・メドウズ(1854年生まれ)は、テキサスからニュー・メキシコに移り住み、カウボーイとして働いていた。その中でビリー・ザ・キッドやパット・ギャレットなどの人物と直接知り合う機会を得た。1930年代にビリー・ザ・キッドが映画やミュージカルで大々的に取り上げられるようになる中、ビリー・ザ・キッドの史実を伝えるために回想を新聞に公表した。全19章の中から第1章、第2章、第3章、およびその他のビリー・ザ・キッドに関連する部分を抄訳。

第1章 出会い

第2章 ビリーとリンカン郡戦争

第3章 パット・ギャレットとビリー・ザ・キッド


ミゲル・アントニオ・オテロ『ビリー・ザ・キッドの真実の姿』

ミゲル・オテロ(1859年生まれ)は、1897年から1906年にニュー・メキシコ準州長官を務めた人物である。長官から退任後、3巻からなる回顧録を刊行している。さらにオテロは1936年に『ビリー・ザ・キッドの真実の姿』を発行した。その目的は「誇張もなく事実に基づいて」キッドに関する史実を書くことであった。オテロが初めてキッドの姿を見たのは1880年12月のことである。その時、キッドはギャレットにサンタ・フェまで連行される途中、ラス・ベガスを通った。オテロはラス・ベガスからサンタ・フェまでの道中に同行した。ビリー・ザ・キッドの事績については『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』と重なる部分が多く、独自の内容を含む第7章、第8章、第9章、第10章、第11章、第12章、第13章を抄訳。

第7章 パット・ギャレット保安官登場

第8章 リンカン郡戦争の反響

第9章 リンカンが記憶するキッド

第10章 キッドに関するさらなる記憶

第11章 フォート・サムナー訪問

第12章 キッドの旧友が語る

第13章 著者とキッドの出会い


フロンティアの戦士

原題は『FRONTIER FIGHTER: THE AUTOBIOGRAPHY OF GEORGE COE WHO FOUGHT AND RODE WITH BILLY THE KID』。リンカン郡戦争の参加者の最後の存命者として知られたジョージ・コーが1934年に刊行した自伝である。リンカン郡戦争の中でコーはビリーと肩を並べて戦った経験を持つ。

第7章 際立った友情

第8章 ビリー・ザ・キッドとタンスタールの殺害

第11章 ブレイディ保安官の殺害

第12章 ブレイザー・ミルの戦い

第13章 キッドはセブン・リバーズの一党の裏をかく

第14章 悲しい話

第18章 リンカン郡戦争

第21章 我々一味の無為な時間

第22章 ビリー・ザ・キッドとの最後の別れ

第23章 ビリーの人生の終わり

第24章 ビリーはまだ生きているのか


その他

上記の史料に加えて自筆の手紙の翻訳、関連年表、さらに当時の新聞報道や各種伝記からビリー・ザ・キッドに関する記録を収録予定。ビリー・ザ・キッドの史実を知るための決定版!!!

『タイム誌』1941年8月4日号特集

『モーニング・オクタゴニアン紙』1931年5月28日

『モーニング・オクタゴニアン紙』1881年7月19日~8月4日

『ザ・アリゾナ・シチズン紙』1877年8月25日、他各紙

『ラス・ベガス・ガゼット紙』1878年4月13日

『ウィークリー・ニュー・メキシカン紙』1878年4月20日

『ウィークリー・ニュー・メキシカン紙』1878年10月26日

『ウィークリー・ニュー・メキシカン紙』1880年1月17日、その他

『ラス・ベガス・モーニング・ガゼット紙』1880年11月30日

『ラス・ベガス・モーニング・ガゼット紙』1880年12月11日

ヘンリー・ホイト『フロンティアの医師』(1929年)

サンデー・ワールド・マガジン誌(1902年6月8日)

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