ビリー_ザ_キッド_最後の日々

ビリー・ザ・キッド、最後の日々―第1章 1878年8月、私はビリー・ザ・キッドに会った

序文から読む

1878年8月14日、私はビリー・ザ・キッドに会った。 その時、私は父の羊の群れを放牧していた。そして、1878年8月14日、私はニュー・メキシコのフォート・サムターの街から西に3マイル(約4.8キロメートル)離れた辺り、ペコス川の西側にキャンプしていた。

私は10才のペドロ・マイナスと一緒にいた。午後3時から4時頃、私は羊に水をやりに川へ行った。川から帰った時、キャンプに馬の群れがいて多くの男たちが私のキャンプの周りを歩いていた。私は何がどうなっているかわからなかった。そこにいる人たちが誰なのか確認するために私はキャンプに向かった。 キャンプの近くまで来た時、私は男たちの一人がやって来るのを見た。彼が私から50ヤード(約45メートル)の距離まで接近した時、ホセ・チャベス・イ・チャベスと呼ばれている男だと気づいた。私の所まで彼はやって来て「恐れることはない。我々は善良な者たちだ。我々は逃げて来て非常にお腹を空かせている。そういうわけで我々は羊を殺している」と言った。

羊がキャンプの近くを通り過ぎた時、彼らは3匹の羊を殺した。彼らが私の羊を殺すのを見て私は非常に驚いた。しかし、チャベスは私に話しかけて、自分たちは腹が減っているだけで羊の代金は支払うと説明した。我々がキャンプに着くと、彼は私に以下の男たちを紹介した。フェルナンデス・アルネラス、フランク・アルネラス、フランク・サラザール、ヒギニオ・サラザール、イキジキト・サンチェス、ホセ・フアルド、モデスト・フアルド、ペトロニロ・セディーロ、アタナシオ・エル・ボニート、そして、他にも数人がいたが私はその名前を覚えていない。それからアメリカ人のビリー・ザ・キッド、ビリー・ウィルソン、チャールズ・ボウディー、トム・フォリアード、バーニー・メイソン、トム・ピケット、ボブ・デーヴィス、そして、他にも数人がいたが私はその名前を覚えていない。全員で17人ぐらいであった。

ホセ・チャベス・イ・チャベスは全員と話し終わった私に「街に行って俺たちのために何か食べるものを持ってきてくれ。肉以外に何もないからだ」と言った。彼らは私を馬に乗せて、キャベツは私に10ドルを与えた。そして、コーヒー、砂糖、クラッカー、トマト、そして、その他の種類の食べ物を買ってくるように言った。

私が街へ向かって出かけようとした時、チャベスは、「家に見知らぬ者達がいるかどうか見てきてくれ。俺たちは追ってきた黒人ども[訳注:黒人兵士のこと]から逃げてきたところだ」と私に言った。私は街へ行って彼らが注文したものをすべて持ち帰った。彼らは、その夜と翌日、そして、その翌日の夜の間、そこに滞在した。その間、彼らは私に彼らがやったこととその理由について話した。

ホセ・チャベスは、「ご存知の通り俺たちはジョン・チザムのためにカウボーイとして働いている。マーフィーという名前のテキサスから来た外国人から雄の子牛を盗んだことから戦争が始まった。奴には数多くの兄弟がいた。奴らは非常に金持ちでブラゾス川[テキサス州中部を南東に流れてメキシコ湾に注ぐ川]に多くの牧場を持っていて、チザムから牛を盗んでいた。そこでチザムは、彼のものであれ、マーフィーのものであれ、他の誰のものであれ、牛を持ち込んだ者に1頭あたり5ドルを支払うことを俺たちに約束した。そのせいでジョンチザムとマーフィー一家の間で戦争が始まった」と言った。

それからホセ・チャベスとその他のスペイン系アメリカ人は、マクスウィーンの家の火事について語った。彼らはマウスウィーンの「護衛」についていたと私に語った。リンカンでマクスウィーンは大きな事業を手がけていて事務所を構えていた。マックスウィーンはジョン・チザムの顧問弁護士であった。誰かが牛を盗んでテキサスへ運んだ一方、別の誰かが牛をテキサスからチザムの牧場へ運んだことが両陣営によって発見された。両陣営は互いを牛泥棒と非難し合った。

ホセ・チャベスは、「マーフィー一家には多くの兄弟がいて、とても豊かであり、とても大きな店をリンカンに持っている。戦争が始まった後、我々はマーフィー一家の協力者を何人も殺害した。奴らは我々の仲間たちを何人も殺害した。1878年8月の第1週のある日、完全武装した49人を引き連れたボブ・ベックウィズがやって来て『マクスウィーン氏、俺はボスのマーフィーの命令であんたと俺たちの間の問題を解決するために来た』とマクスウィーンに言った。マクスウィーンは『それは大変よろしいことだ。私の事務所に来てくれ』と答えた。ボブはマクスウィーン尾後に続き、キッドは両者の後に続いてマクスウィーンの事務所に入った。マクスウィーンは腰を下ろして背中をボブに向けた。するとボブは銃を抜いてマクスウィーンを背後から撃った。同時にビリーはボブの頭を撃った。ボブは即死した。さらに外にいた他のテキサス人が家のあちこちで発砲を始めた」と言った。

さらにチャベスは、「我々はマックスウィーンを『護衛』していた。ここにいる俺たちの他にもリンカンに隠れている者たちがいる。俺たちは全員で50人いたが、家の至る所に火が燃え広がったので俺たちは家から出ないといけなくなった。焼け死ぬよりも銃弾で死ぬほうがましだろう。外に出たら49人のテキサス人たちは、家の中に向かって銃弾打ち込み始めたが、俺たちはとにかく外へ出なければならなかった。仲間たちのなかで5人がうまく外に出たが、3人が殺され、3人が負傷した。その時、ビリーが『こっちに来い、ホセ』と俺に言った。ビリーは俺たちがいた家の窓に向かうと『俺に続け』と言った。ビリーは窓を破って外に飛び出た。俺はビリーに続いた」と続けた。

「俺たちはテキサス人たちに向かって発砲した。その瞬間、まだ中に残っていた仲間たちが一斉に飛び出した。するとテキサス人たちは逃げ去った。それから俺たちは死体を片付けるのを手伝った。持ち出せたのは品物だけだ。家具はあまりに大きすぎて持ち出せなかった。俺たちは街の人々と一緒に何とか持ち出せるものをすべて持ち出した」

チャベスは、「それからすぐにマーフィー一家は、マクスウィーンが死んだのを確認した。フォート・スタントンの司令官はマーフィー一家の味方について、100人の黒人[兵士]の一隊を俺たちを逮捕するために派遣した。ジョン・チザムはマクスウィーンが死んだことを聞くとすぐにカンザス・シティーに逃げた」と言った。

「俺たちは支援もなくここに取り残されて逃げなければならなくなった」とチャベスは言った。

第2章に続く

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