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ポーランド・カトヴィツェに本当にあった伝説的なカフェとワルシャワ通りの歴史 (1)


ここで楽しむことができたのは、このカフェにふさわしい人たちだけでした。

カミル・コザコフスキー



のちに「リベリウス・オットー」と呼ばれることになる店があった一本の通り。最初はミ スウォヴィツカ通りと呼ばれました。 つまりその通りはミスウォヴィツェへ続く通りでした。

やがて、その通りはドイツ語でフリードリッヒシュトラッセと呼ばれ 、その次にポーランドを独立へ導いた将軍の名がついたピウスツキ通りとなり、最終的にポーランドの首都の名がついて、ワルシャワ通りと呼ばれました。

店が入っ ていた集合住宅は、1859年に商人サロモン・ゴールドスタインのために ドイツ系ユダヤ人イグナ ツィ・グリュンフェルド(1881〜1931)によって 建てられました。

<4階建てのアパルトマンにあった、ちょっとしたカフェでした。>

ゴールドスタインは後年、その建物をドイツのラインラントの菓子商に 売却しました。新しい所有者はドイツ人のカトリック信者のリベリウス・オット ーに売却しまし た。

新しい所有者は、1905年地上階に、 (第一次大戦)戦前の時代に「リベリウス・オットー」として知られていました菓子店 を開きました。菓子店の自慢は、四つの飲食ホール、ビュッフェ、それにトランプ ゲーム ができるホールでした。

1929年に建物を菓子店と共に 、さらに「リベリウス・オットー」の社権利を、ポーランド人実業家で、ハンガリ 名誉領 事でもあったスタニスワフ・ベシュチンスキが買収しました。

ところが、オットーは、自身の故郷である ドイツのヴィエスバーデンに帰郷してしまいました。カトヴィツェ住民にとって、「クリ スタル」と言えば、カフェが記憶に残りましたが(のことでしたが、)、一口脇の ホールはその喫茶店は菓子店としての性格特質も備え合わせていたので、菓子店のホールへの 入り口もありました。そこでテイクアウトのお菓子を買ってみたり、または一切れのタルトを前 にちょっと座ったりできたのです。1929年のカトヴィツェ・ガイドでは リベリウス・オットー の店はカフェではなく、コンフェクショナリー(ドイツ菓子店)として掲載されていたことに注意する必要があります。当初 コンフェクショナリー(菓子店)と呼ばれた場所は、カフェよりもずっとエレガントな場所でし た。菓子店では様々な種類のコーヒーが提供されました。そして菓子店の顧客は大抵富裕層でし た。


たいていのカフェはコンフェクショナリーよりも、慎ましい特徴を持っていました。主に注文できたのは、コーヒーとお菓子でしたが、同様に卵 パン、コー ヒーから成る典型的なウィーン風朝食を注文することもできたのです。最 初 は女性はカフェへ入ることはできませんでした。カフェは典型的な男性のための場所 でしたから。そのかわり、菓子店へは、男性も女性も、とてもよく訪れていたので した。そして女性たちはといえば、テーブルのお菓子とコーヒーを前に、 噂話をするためによくそこに立ち寄っていたのでした。


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