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友に話したいこと、どんなこと


12 しかし、お前たちはナジル人に酒を飲ませ/預言者に、預言するなと命じた。13 見よ、わたしは麦束を満載した車が/わだちで地を裂くように/お前たちの足もとの地を裂く。14 そのときは、素早い者も逃げ遅れ/強い者もその力を振るいえず/勇者も自分を救いえない。15 弓を引く者も立っていられず/足の速い者も逃げおおせず/馬に乗る者も自分を救いえない。
16 勇者の中の雄々しい者も/その日には裸で逃げる、と主は言われる。

アモス書2章12−16節 新共同訳聖書

ああ、地が裂かれる。その深淵の中に足を取られ、救いえない状況が語られているのを読み、目を閉じてその情景を思い浮かべました。勇者、兵士、力を競い合い、自慢し、猛々しい人々が、次々に落ちていくのです。あっぱれ?いえ、勇者にされ、兵士にされ、最前線で戦わされている人々はどんな人たちだったのだろうかと想像すると恐ろしい世界が描かれていると思うのです。ああ怖い。怖がらせたくて、恐怖で煽りたくてアモスはこんなことを言うのでしょうか。そうじゃないといいなと思います。

アモスの心の中には責任を持っている人たちが弱いものから吸い取ってこうやって命までも鷲掴みにして捨てていることが我慢ならなかったのかなとおもおいます。だとしたら、私は何ができるだろうか?自分はどちらかといえば、「先生」なんて呼ばれたり、「立派」な立場に立たされることもあるけれど、その中身はボロボロ。本当はそんなところに立っている身じゃないのですともう一度自分に「そうだよね」と言うと肩の力がスッと抜けます。時々、この先が不安になって自分を過剰に強くて、大丈夫に見せてしまうけれど、本当は使い慣れていない弓を渡されて、戦わされているだけなのです、と。本性を知ってもらいたいのです、そんな祈りの言葉が出てきました。誰に知ってもらいたいのかな?「そうかあ、そうだったんだ」と新しいこととしてこの言葉に向き合ってくれそうな友かなと思っています。イエスもそんなふうに思っていたのでしょうか。友と呼ぶ。

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

ヨハネによる福音書15章15節 新共同訳聖書

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