「どちらが上か?いや、どちらもここにいる」
二つものが並んでいるとどっちが〜?と比較してしまうことはないですか?二人の人がいるとどっちが上?下?と考えたり、対面する相手の肩書きを知らないで失礼になったらどうしよう、なんて礼儀正しいありように思えて、実は常に上下関係を気にしている証拠かも。今回は、そんなどちらが上?に縛られている自分にとって気になる聖書の箇所から考えてみました。
常識的であることで身につけた感覚
イエスがバプテスマのヨハネとの強い結びつきの中で宣教活動をしていることは明白です。しかし、「ヨハネが師?」「イエスの方が上?」という感覚でこの二人を見てしまっていませんか?どちらが教える側でどちらが教えられる側なのか?と、即座に二人の関係を上下に捉えてしまってはいないでしょうか。この感覚は文化的な習慣と関係があるようです。「教師から習う」ことで「わかる」のが常識的とされる社会で生活するうちに養われていった人間関係に対する「感覚」ともいえるのではないでしょうか。
一度きりの浸め(しずめ)によって
ところがイエスは誰が誰より上なのか、誰が教えることができ、誰が教えられるべきかという感覚からは解放され、異なる人間関係を提示します。そして、バプテスマのヨハネの運動を拒否してきた人々に対して強い非難の言葉を述べました。
「彼からバプテスマを受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」(30)。
バプテスマのヨハネは一度きりの浸め(しずめ)で、神との関係の再構築ができることを説き、悔い改め(方向転換)を呼びかけました。
それを拒否する人々は、「人間は常にケガレにさらされているため、神殿に入るたびに沐浴し、ケガレを洗い落とす必要がある」という祭司制度上の慣例に固執しました。
繰り返しの入水には、悔い改めは要求されません。入水は文字通りの「ケガレを落とす」ことであり、バプテスマのヨハネが呼びかけた悔い改めという霊的活動を必要としないのです。入れば良い、洗えば良いのです。
この洗いによる落としの土台は、神と人間の関係は上下関係だということです。ところがイエスは、神は共に歩き、食べ、痛み、そして水の底にまで伴ってくれる移動すると考えており、その考えを行為で示しています。
バプテスマのヨハネの悔い改めの運動は、複数回の入水によって人はそもそもケガレており、神との間には隔たりがあるということへの抵抗運動だったのです。イエスは、移動する神を、このバプテスマのヨハネの運動を通して表しました。
悔い改めは自己否定ではない
悔い改めは自己否定ではありません。生きていくために自らをより人間らしくあらせようとする人間のもがき、決意、覚悟こそが、悔い改めです。悔い改めに根ざさない複数回の入水は、人間を非人間化します。
イエスは、バプテスマのヨハネの呼び声を支持し、対等な者として彼を尊重します。イエスはバプテスマのヨハネを支持しながらも、彼とは異なるあり方で神の愛を伝えようとします。イエスの反対者たちはいずれの活動についてもその真意を把握できていません。ただ、異なりがあることに対し殺意をむき出しにしただけです。どちらが上なのかにあくまで固執しているからです。バプテスト教会の全信徒祭司とは、イエスのこのあり方に習う実践です。つまり、神は共なる、友なる、伴なる存在であり、接触するために毎回入水を求められるような上座にはいないということです。
私は牧師の役割を担っていますが、牧師は偉い人ではなく信徒の働きの一断面を担うために、この奉仕に献身したということ以上のものではありません。特段の謙虚さというよりは、バプテストの持つ神観、人間観に根差し、共にいる神に信頼する自由な生き方へ招かれたと実感してこの役割を担うために踏み出したということです。それは誰にでも起こること、そして誰にでも踏み出せることです。なぜなら、距離はそんなに遠くないどころか、かなり神というのは密着しているからです。さあ、今週も楽しむぞ。
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