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「切れてもまたつなげばいい」〜しんどさからワクワクへの道のり〜

さて、ルカによる福音書15章8−10節を読んで、2月26日発行の週報巻頭言を書きましたよ。巻頭言が「説教要約」になっていないのは、同じテクストからも複数の声を聞き取れるようにと思ってのことです(言い訳かな〜)。実際に日曜日のお話した内容は、こちらに書いています。

この話をする前に記したのが、こちらです。

たとえに出てくる女は、ドラクメ銀貨十枚のうち一枚を失います。直前には百頭の羊のうちの一頭が見失われる話があり、対になっています。羊は自ら目の届かない場所へ移動する可能性がありますが、銀貨は自らの意志でどこかへ行ってしまうことはありません。無くしたことは明らかに銀貨の持ち主の過失のように受け止められてきました(羊飼いのたとえでも羊飼いは「見失った」とあり、決して見失われた方が逃げたとはありません)。羊飼いの話については、キリスト教会で羊飼いの愛情、危険をも顧みず追い求める熱意が強調され伝えられてきました。
銀貨を無くした女はたった一枚を家中探し回り、「せこさ」、貧しさが強調されてきました。男性と女性の社会的通念の眼鏡を通して読むと読者、説教者は大切なことを見失ってしまいます。羊飼いは野山、谷山を探し回る自由行動可能な者ですが、銀貨の女は暗い(実際当時の家は昼間も相当暗かった)家中を掃除します。行動範囲の狭さ、明暗、同じ「持ち主」でもかくも異なるかと驚きます。
 ドラクメ銀貨十枚のうちの一枚が無くなってしまった理由はどこにも記されていません。その理由の可能性は無限にありますが、少なくとも十が一つのまとまりであったことを考えたいと思います。指されているのは十戒かもしれません。十戒のうちの5つ以上守れていれば合格?そうではないでしょう。一つひとつ繋がっているはずです。十個で一つを成していたはずですが、なんでも数の問題にされていた当時の宗教事情も反映されているかもしれません。
一つでもダメなら全部ダメと、厳しく扱われてもいたでしょう。メッセージでは、この規範的な社会をイエスが問い私たちを新しい世界へと誘ったことを話します。
銀貨には穴が空いていて、首飾りのように紐で結えられていたとも言われています。十個の銀貨は婚姻の約束のしるしだったとも。一つが無くなるとは、繋いでいた紐が劣化したのか、あるいは強い力が加わって切れてしまったのかもしれません。暗い閉塞感のある家の中ではそれを探すことは困難です。そのドラクメ銀貨の値よりも高価な油を消費してでも探す必要は…あるのです!貨幣の価値以上に切れたものをそのままにしない知恵の神の姿が女の行動に表されています。
暗闇の中で木の枝葉でできた箒を使い銀貨を探すために必要なのは、銀貨が触れて(繋ぎ直されて)音が鳴る、その瞬間がくるまで希望を抱き静けさの中、耳を澄ませることです。捜索の方法が視覚的なものではなく、聴覚的なものであったことに驚きます。この女には友達や近所の人がいました。油を使い、火を灯し、喜びの宴が開かれます。ドラクメ銀貨の価値以上を費やして。切れてしまった関係の回復の希望は、カウントレスです。百頭、十枚と勘定する世界は「私のもの」という閉ざされた世界です。つなぎなおしの祝宴は、私だけのためではない!そんな世界が描かれています。一人でのつなぎなおしはしんどいけれど、後の宴にあなたの友達が訪問することを想像してみてください。そのしんどさはワクワクに変わります。

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