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クリスマスに読みたい聖書の話④〜イザヤ書7章10−17節(2)〜

イザヤ書7章10−17節から考えたいテーマは「恐れと沈黙」です。
 王となった一国の支配者が恐れのあまり手っ取り早く自分よりも強いと思えるものたちに取り入ろうとする話です。よくよく考えてみると、

私たちが危険を回避したい、なんとかして目の前の難局を乗り越えたいとあたふたとするときどうするでしょうか?一番簡単な方法で、即効性のあることに手を伸ばして早くこの局面から脱出したいと願う私の有り様がそのまま描かれていると思うのです。そして国家レベルでは軍事攻撃、親しい人との間では暴力、あるいは、無関心になりとにかく背を向けるという方法もあるでしょう。でも背を向けるということと、積極的沈黙を取るということは異なります。

アハズ王即位後すぐ、北側の王は隣国と手を結んでアハズを揺さぶりました。アハズ王は即位直後の弱みにつけ込まれ、力で抑えようとしました。当時飛ぶ取り落とす勢いのあったアッシリアに、助けを求めようとしたのです。隣国はアハズにいうのです。「仲間として一緒にアッシリアに対抗しよう」と。
アハズは出し抜いて逆にそのアッシリアと手を結ぼうとしたのです。その後、アハズはアッシリアの言いなりなるのは間違いなかったでしょう。さらにはアハズは隣国の友人をも失うことになったわけです。敵が味方になり、味方が敵になり、全くの不信状態です。こんなふうに私も生きてきたとつくづく思います。きっと私だけではないのではないでしょうか。人間関係のもつれというのはこういうことかもしれません。

王のいわばビビり、パニックにイザヤは「何もするな」と言います。そんな無責任な、と言いたくなります。私も渦中にあればそんな忠言は「無理解だ」と遠ざけたかもしれません。今何かアクションを起こしたいと。でもそんな決起果敢な時にイザヤは良質な積極的沈黙を取れと言うのです。具体的に目に見える強さを追い求めず、誰にも近寄らず黙っていろというのです。

 この預言ほど今の社会に問いを投げかけるものはないと思います。
頑張ってなんとかしなくては、なんとかしなくては。手の届く範囲で直ぐにできることに着手させられていきます。要因は究極的には恐れです。起こったことの責任は全部自分にあるという感覚が自らを追い立てます。早く、今やらないと、攻められるのも、奪われるのも、失うのも自分だとなります。あまりにも寂しすぎて、殺伐としているのです。時間をかけてゆっくりと歩くことができなくなります。時計はいつもあと1秒を差している感覚で生きていると、沈黙は無駄な時間に思えるのです。もっともっと本当は時間があるのかもしれません。

かくいう私は昨夜、学校の帰り道、目の前で人身事故による電車の停止。電車は動かないけど私はあと80分後には次のオンラインミーティングを控えているという状況です。即座に電車を降り、ひたすらに電車が動いているという隣駅まで黙々と歩き始めました。多分小走り。こんなに急いでクタクタになる自分を後で振り返って、涙が溢れてきました。本当にそんなに詰め込まなくてはならなかったのだろうか?こんなにも働かなければ誰かがどうにかなってしまうということ自体おかしいのではないか?と。実は今日も会議でいろんな絵が描かれていくのですが、ちっともそれを楽しいとは思えなかったのです。そのために後1秒を惜しんでやらなければならないことばかりが思い浮かぶのです。アハズへのイザヤの言葉をもう一度噛み締めたい。黙って。とにかく黙って。

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