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ひだまり礼拝に参加して

普段は有料記事を書いているのですが、今回は公開記事です。

7月23日(日)礼拝後にぱくぱくっとお昼を食べて吉祥寺へ。すごい人!!何より駅前ではミャンマーからきた方々が支援を呼びかけている募金活動をしています。素通りもちろんできなかったです。挨拶をして、東美教会へゴーゴー。やっぱりギリギリ。
第2回ひだまり礼拝でお話をしました。おじまどい気味な私でしたが集まられた方がとっても親切で温かかったです。暑いを越す温かさ。

昔の話じゃない

ここで話したのは、私がちょこちょこっと他でも書いたことのある砂地の人のことです。岩の上に家を建てるというメンタリティを問いたいと思ったのです。一番の岩盤はなんといっても「これはイエス様が教えられたことなんだぞ」という本当に隙だらけの定説。私がいつも気になるのは、なぜイエスがこの話をしたのか?と、これを誰が、どんな教え、にしてしまったのかということ。そこの部分は神学のお話として掘り下げたいけれど、一方で隠された物語がここにはあるように思うのです。
柄にもなくエルサレムにも行ったことがあるのですが、あの岩造りなる荘厳な建物に遭遇すると心の中にモヤっとくるのは、石切りの労働を思うのです。今はITの国、でもものすごい格差社会で外国人労働者も多くいます。でもこれって、今のイスラエルだけではなくて、イエスの時代がそうだったんじゃないの?と思うのです。ほんの一部の人が岩の家に住めて、あとはみんな災害のたびに流されたり飛ばされたりする家に住みながら、岩を削り、運び、建設していた〜けどそこには自分は住まないよ、と。

虐待加害の底の方にある「格差」と歪さ

今回は虐待を経験した人のためのということでしたが、実際に集められてくる人の誰がそうだとかそうじゃないとかではなく、そのことを念頭においての礼拝ということで、ああ、素敵な礼拝の取り組みだなあと思いました。そして徐に虐待についてを学習するわけでもなんでもなく、問題は礼拝する中で人が癒しを経験したり、癒しについて考えたり、癒されることについて思いを傾けていくきっかけがちょこっとでもあったらいいなあと思うもの。そう。だから主の祈りの言葉も私が好きなバージョンだった。虐待って個人化されてしまうことが多くて、その加害本人のパーソナルな問題にされて、結局は被害者が置き去りにされていくのかなということを改めて思いながら聖書の言葉に取り組んだ。歪さが見えない形で底の方に渦巻いていて、そこに飲み込まれていくようにして暴力性が発揮される、そしてそれが自分の身近にいる人に容易に向けられていく構造ががっちり作られていくことに気づきながら、聖書にもそのことが書かれているんじゃないかと思う。
私の言葉を聞いて行う人は岩の上に家を建てた人に似てて、それは似ているけれどもその人だって書いていないことが有耶無耶にされてきた。似ているだけ。決してその人だとは言われていないよね。

歪さを矯正する力はいらない

間違っていることを無理から真っ直ぐすると折れる。そして折れたリベンジがまたくる。怖すぎる。そうではなくて、間違っていることは、その間違いとは全く異なる方法と表現で、あらぬ方向で「違う」という必要があると思った。例えば傷つけられた人たちが、傷つけられているのに自分の傷ゆえに楽しく人と出会ってこの上なく、他の人にはわからないような「幸せ」になれたとしたら、そんな素敵なリベンジはないなって思う。ああ、こう書くとまた、リベンジはキリスト教的じゃないって言われるかな〜。でもね、リベンジってお返し、レスだから。復讐というよりは報復。その報いがお前もおんなじ目に遭え!というおどろおどろしいものにされるよりも、お前はおどろおどろしいけど、こっちはお菓子バリバリ食べてていっぱい話すことがあって、どんどん友達できてしまった、そんなざらざら、さらさら、ザクザクな砂地の人でいいんじゃないかって思う。岩はどーーーんと重々しくのさばっているけど、砂はまるで水のように流れていく。また戻ってくるしね。

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