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車内

 学習塾を出たところに、いつものように大きな外車が停まっている。左ハンドルの運転席から、黒いマスクを着けた男がこっちに向かって手を振った。さっと手を振り返し、後ろから車が来ていないことを確認して、助手席のある道路側に回った。外国車はこれだから、面倒だな。

「おつかれ。今日も、優等生は大変だね。」

 ドアを開けて乗り込むと、労いの言葉。清春は俺が学習塾に通い始めてから、欠かさず迎えに来てくれていた。車の中まで、ぶどうの匂いがする。甘くて、酸っぱくて、重厚で滑らかな。清春のいるところなら、どこでもこの匂いがするんだな。

「いつもありがと。うれしいけど、毎回じゃなくても大丈夫だよ。清春の負担になりたくない。」

「いーの。おれが、飛鳥と一緒に居たいだけなんだから。あすかが嫌なら、やめ…る、けど…、や、無理。やめてって言われても来る。」

 あの不祥事のあと、家庭教師の井伊束(いいづか)は解雇され、僕は9月から学習塾に通うことにしていた。週に2回、17時から20時まで、父の息のかかった集団型の学習塾で。事件以降、誰かと二人きりという状況になんとなくストレスを感じるようになったからだ。

 男に襲われたという事実は衝撃的だったけれど、ダメージを受けた、という実感はそれほどなかった。たまたま、井伊束が行動力のある変態だっただけだ。そんな人間はそうそういないと思っているし、また誰かに襲われるとか、そういう心配はしていない。強姦は未遂で済んだし、押し倒されはしたものの、そのあとは清春が来るまで話をしていただけだったので。むしろ、清春や父の方が俺のことを心配している。それも過保護なほど。


『———一人で、平気か。なにか、俺にできることは、あるだろうか。』

 井伊束を処分した後、会社に戻らなければならない父が気遣うようにそう言った。僕が父の優しさを感じたことなんてもしかして初めてかもしれなくて、こういうとき、関係性の変化をひしと感じる。家族を気遣う、なんて慣れない行動にぎくしゃくしている父を、かわいいと思った。そして、単純に嬉しかった。確かに父とは気まずい関係だったけれど、彼を嫌ったことはなかったからだ。ありがとう、と言うと、父は小さく笑ったように見えた。実際はどうか知らないけれど、僕にはそう見えた。


「ね、新しい家庭教師じゃなくて塾にしたのって、先生と二人っきりがやだったから?」

 車のハンドルにもたれて、こっちを見上げながら清春が言った。クラクションが鳴ってしまいそうですこし怖い。清春は何やらかわい子ぶっているようにも思えるが、実際はどうなんだろう。

「そうだけど、」

 事の経緯などは、あらかた伝えてある。それをまた確認してきたのには、どういう意図があるんだろう。

 清春は顔をぐっと近づけてくる。いくら大きい外国車とはいえ車の広さなんてたかが知れていて、少し体を伸ばすとすぐに近づける距離だ。

 暗い中でも瞳の紫が見えるくらいの距離に、華やかで美しい顔があった。まつ毛がすごく長い。目じりが垂れて、頬っぺたが上がって。マスクで顔半分が隠れているにも関わらず、目の前の男がにやついているのがよくわかる。

「おれと二人でいるのは、だいじょうぶなんだ?」

 それを聞いたら、清春が何を考えているのか、何のために同じことを聞いて来たのか、はっきりとわかってしまった。この人は、僕に特別扱いされたいって、そう言ってるのだ。期待し過ぎかもしれないけれど。でもそう思ってしまったら、もう、清春がかわいくて、かわいくて、好きで仕方なくなってしまった。この気持ちを、余すことなく伝えてあげたい。知って欲しい。僕は、あなたが大好きなんだっていうことを。そうしたら、清春は少しか喜んでくれるだろうか。

「清春は、特別だから。大好きだから、いいんだ。僕が、二人きりでいたいから、いいんだよ。」

 しっかり目を見て、ちゃんと伝わりますように、と念じながら。いつもちゃんと伝えられていないけど、勇気が出た今のうちに言ってしまいたかった。

 にやにやしていた顔が、優しくって柔らかい笑顔に変わる。目を細めて、見つめている。ハンドルを掴んでいた右手が僕の首筋を這って上がり、髪の毛をかき混ぜるように撫でていく。まるでペットみたいに僕を撫でる清春と、それが嬉しいって享受する僕。段々撫で方が激しくなって、しまいには両手で撫でくりまわされている。清春は何にも言わないけど、伝わってくる。これは、愛してる、の触り方だと思う。清春に会うまで知らなかった。かわいいって、愛してるって思うとき、その相手に触れたくなるんだね。指先から、好きとか、愛とか、なにか、そういう感情が放出されているみたいで、いっそうどきどきする。なんか、こんなに、僕のことが好きって、全部で表現してくれてるのに、たまらない気持ちになって。

 ああ、もっと、近くに行きたいなって。宝石みたいなキラキラの目をちゃんとみたいなって、大好きな顔を、表情を、予測じゃなくて、まるごと余さずこの目で見たいなって思った。だけど清春はマスクなんかをしてるから、それをぐい、と下ろして顔を近づけてやった。もっと、もっとって近づいているうち、唇同士がくっついた。キスをしてやった。清春の唇は、柔らかいけど少しだけカサついていた。ちゅ、と軽く触れるだけの子供みたいなキスだったけど、僕は今までにないような充足や満足を感じていた。清春は顔を真っ赤っかに火照らして、僕がシートにぼすんと戻った瞬間、ハンドルに頭を打ち付けている。どん、どん、どん。ステアリングのクッションに衝撃が吸収されて、車の中に鈍い音が響いた。どん、どん。車も揺れる。何かぶつぶつ言ってる清春が急に頭突きをやめた。

「やばい、やばい」

 やめたと思ったら、今度は顔を扇ぎ始めたけど、何故か距離感をうまくつかめていないのと、勢いが良すぎるのとでセルフビンタになっていて、火照るとか言う問題じゃなく、おでこもほっぺたも真っ赤だった。夜の暗闇の中、街灯や塾の看板の明かりが清春を照らしてた。愛おしくて、咄嗟にしてしまったキスだった。僕は戸惑っていたけれど、それよりもっと錯乱している人が目の前にいるから、ずっと冷静でいられた。

「あすか、かわいいね、え、やばい、え、」

 マスクが外れたまんまの清春は、いつもよりよく顔が見える。だから、目をかっぴらいて真顔のまんま、もにょもにょと動く口元まで丸見えだった。ほんとうにかわいい。

 …そういえば、僕からキスをするのは、今が初めてだっただろうか。そう考えると少し恥ずかしい気がしたが、それに狼狽えまくっている清春の方がもっと恥ずかしいので、とりあえず今はこの珍しい清春を眺めていたい。

 結局、清春が頭突きをやめて運転できるようになるのは、1時間ほど経ってからだった。道行く数人が、こんなところに停まっている不審な車とその運転手の奇行をちらちらと見ては、関わりたくないとばかりにそそくさと去っていく。あたりは真っ暗。塾の看板の明かりも消えて、近くのコンビニだけがこうこうと光っていた。



 それからだ。キスしたいって顔でこっちをじっと見てくるくせに、清春からしてこなくなったのは。自分の唇をもにょもにょと甘噛みしながらこっちを見てさ、僕からしてほしいって顔に書いてるけど、それをわかっていても僕からはなかなかしてあげられない。だって、恥ずかしいし。

 …それに、キスを待ってるそわそわしているあいつも、実はこっそり好きなんだ。



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