どうにも自信がない桜守と、絶対に手放すつもりのない神様の話
※ 男性同士の恋愛描写あり。
からんころん、ころ、ころん。そうやってわざと鳴らした下駄の音が春緒にしか聞こえていないことは確かであり、そのことを春緒は嬉しく思うと同時に泣きたいような気持になった。やはり、椿野の言っていた通りだったのかもしれない。
「どうした、」
立ち止まり、俯いた春緒の顔を桜蔵が覗き込むと、小さく謝る声が聞こえた。どうした、続けて尋ねても頑なに答えようとしない春緒に、桜蔵は腹でも立てたかのように、やめた、帰るぞ、と言う。手を引かれ、来た道を戻りながら、春緒はただでさえ色のない肌を更に青くしているのだった。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ……、」
「聞いてやらないぞ。」
そのまま、数分前に出たはずの家に連れていかれる。桜蔵に手を引かれて戻ってきた庭には、朝は気が付かなかった芙蓉の蕾がいつ開こうかとこちらを窺っているようだった。ふっくらと小さな、つん、と先のとがった緑色の球体は、先にうっすらと透けてしまいそうな白をのぞかせて、しかしまだ閉じたままである。
手を引かれながらもじっと見つめていると、前を歩く桜蔵の足が止まったことに気付かずに、大きな背中にぶつかった。少し後退り、見上げると、そこには拗ねたように顔をしかめ、唇を尖らせている桜蔵がいた。目が合うと、芙蓉の前に立ちはだかる。彼の大きな背に隠れて、蕾は完全に見えなくなってしまった。
「なに、他の花なんかに見惚れてるんだよ、こら。」
「ごめん……。」
「すぐに謝るんじゃあない。」
数分前とは違う態度に困惑しつつ、桜蔵に促されて家に入る。帰るなり、自分と春緒の分の麦茶をコップに注いで持ってくると、自分はさっさとソファに沈んで、さて、という風に話し始めた。座った桜蔵の目の前で、春緒は立ったままだ。座ることさえ許されないような、いや、自分が自分を許さないような、ひどく自罰的な気分だった。
「急にゴメンナサイだなんて、春緒は一体如何したんだ。春緒はおれに何かしたのかい。だとしても、俺はそれに気づいちゃあいないし、ましてや不快な思いだってこれっぽっちもしていやしないよ。なあ、おれに教えてはくれないか、おれの春緒。」
桜蔵はいつも、春緒のことをおれの、と言う。それを満ち足りた気持ちで享受してしまってはいけないと春緒は思っているのだが、如何せんこちらもどうしたって愛しているので、喜ばずにはいられないといった感じであった。
「そのとおりだったんだ。」
「なにが、」
「椿野先生の、言ったとおりだった。ぼくは結局、どうしたって汚い人間なんだから。桜蔵は神様で、ぼくなんかが触れてはいけない、ような、存在で。それなのに、あなたを独り占めしたくて、あなたのことを知っているのはぼくだけ、だなんて喜んでいる。そんなぼくは、醜い。所詮は人間(ひと)だって、思い知った。だから、ごめんっ。」
懺悔しているような気分だった。紛れもない、これは、神に対する罪の告白なのだから。
「桜蔵がきれいなのがいけないんだ。」
桜蔵を責める言葉がぽろりと口から零れて出ていった。慌てて口をふさぐも、もう桜蔵の耳に届いてしまったもので、取り返すことはできなかった。こんなこと、言うつもりではなかった、のに。呆気にとられた顔をした桜蔵だったが、すぐに目元を緩めて、揶揄うように笑った。
「綺麗って、すげえ誉め言葉だよ。」
目の下が若干赤らんでいることに、桜蔵は気付いているだろうか。そんなことを考えていると、無意識に手が伸びて、桜蔵の目元を親指で撫でていた。春緒の指が触れると、桜蔵は満足そうにすり寄る。
「春緒、」
「なに、」
「本当に、俺の下に埋まってくれるの、」
「その、つもりだよ。桜蔵が、許してくれるのなら。」
そう約束した。約束を交わしてから、もう、四か月を迎えようとしている。ここのところ、時間が過ぎるのがやけに早い気がしていた。
「お前はおれの、おれはお前の。そういう契約だ。春緒、わかってるの、それとも、」
おれよりも、あんな椿野〈ペテン師〉の言うことを信じるのかい。
そんなことを、そんなに真剣な目を向けて言うなんて、狡いと春緒は思って、わかってる、と一言だけ素っ気ない返事をした。外は相変わらずの快晴。縁側では庇で遮られる日光も、遮るもののない庭では青い草木を明るく照らした。じりじりと熱い夏の温度が家の中にも満ちている。グラスの中の氷も解けてからん、と音を鳴らし、濃く煮出してあった麦茶を薄めていく。時折吹く風が二人の汗ばんだ体を撫でていくが、夏の湿った風はぬるく、汗を乾かすには足りなかった。
「今日は気持ちのいい天気だな、春緒。」
庭に一瞥をくれた桜蔵は、唐突にそう言った。
「桜蔵って、自分勝手だ。」
「そうかな。ねえ、春緒の目、よく見せて。ほうら、もっとこっちにおいで。」
見違えるような上機嫌さで春緒をソファに引き上げる桜蔵は、この時初めて春緒の瞳の薄っすらとした変化に気付く。そしてその理由に思い当たる節があるのか、抱き寄せて、春緒に見えないところでにんまりと笑うのだった。その花弁が開ききったころ、春緒から貰える言葉を心待ちにして。
季節外れの桜の花弁が、どこからか一枚降ってきて、庭から縁側へと入り込み、そのまま春緒の泣き濡れた頬にひたりと張り付いた。まるでそれが肌の一部だとでもいうように同化して、またぬるい風が吹いても、その頬の花弁が落ちることはなかった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?