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エヴァンゲリオンの感想: 「何をすれば良いのか分からない。それなら、どうすれば良いのか」の物語

シン・エヴァンゲリオンが公開された後、エヴァンゲリオンの感想をちゃんと書いていなかったな、と思ったのでちょっとだけ。

ちょっとだけと言いつつ、それなりの長さになるので、予告しておくと、要はこのニューズウィークに書いてある記事と殆ど同じです。遠くアメリカで、私と同じように考えた人が居るんやな、と思って感動しました。

https://www.newsweekjapan.jp/nippon/season2/2021/09/343534.php

でも日本では、シン・エヴァが終わって何年も経ったのに、「エヴァンゲリオンとは何を読み取れる物語なんだろう」ということを書いた感想には、あまり出会わなかったなと思う。だから、取り敢えずは、自分なりに日本人として、何を読み取ったかを書いておこうと思う。

エヴァの感想としては、以前に新海誠監督の「天気の子」と絡めてエヴァQの感想と完結に向けての期待を書いた。

「天気の子」の主人公帆高くんのセリフ「天気なんて狂ったままでいいんだ!」と、エヴァ破のシンジくんのセリフ「世界がどうなったっていい!」。

「世界よりも、自分にとって大切な人を助ける」という行為はどちらの作品も同じですよね、ということを書いた(そして、これは映画のストーリーとしては結構ありがちな話なんだろうな、とも書きました。マトリックスリローデッドとか、スターウォーズジェダイの帰還とか)。

そして、その主人公の「世界よりも、自分にとって大切な人を助ける」結果については「エヴァ」と「天気の子」は対照的だったということも書いた。

「エヴァ破」の続編「エヴァQ」で描かれていることについては、エヴァQの感想として書いた別の文章から引用するとこんな感じ。

「大切な人を助けたい、と自分らしく行動したことで崩壊してしまう世界」
「世界が崩壊することで自分だけでなく周りにも降りかかる不幸」
「自分らしく生きろと言ったのに(ミサトさん!)、我が身に不幸が降りかかると、敵視し攻撃さえする無責任な他人」
「やり直したいと願う強い気持ちを利用する悪人」
「世界を元に戻そうとしても、それは叶えられないという残酷な真実」

エバンゲリオン、ヤバいアニメやな…

そして、「天気の子」では、世界が崩壊した後は「何となく、みんなその結果を受け入れる。恋する2人は再開するという、良い結果に終わる」という感じだった。

これは、私は新海誠監督の庵野秀明監督へのアンサー…というよりはdisではないかと妄想している。

また、私はエヴァQは一つの文章で概要を説明できるのではないか、とも書いた。

つまり、こんな感じ。

「すごく良いことしたと思って、一晩寝て起きたら、世界がめちゃくちゃに炎上してた件」

良いことを確かに実行したのに、世界が炎上してしまったら、我々はどうしたら良いのだろう。炎上までは行かずとも、世界が変わって良いことばかりじゃないと知ったら私たちはどうすれば良くて、どこに行けば良いのだろう。

新海監督は「天気の子」で炎上しても良いじゃん、もともと世界なんて狂ってるんだから。大切なことをしていこうよ、世界を変えていこうよ、と説いた。

庵野監督はどうすれば良いと考えてるんだろう。

それを知りたいな、と思っていた。

テレビ版の最終話では、最後、シンジくんは「僕はここに居て良いんだ!」と叫ぶ。でも、そこがどこで、どんな場所なのか、明確に示されてはいなかったと思う。

シンジくんが居ても良いと実感できる「ここ」はどこなのか。どうすれば、そこに辿り着くことができるのか。

そんな視点で新劇場版のエヴァを観ていって、その結果がどうだったのか、が私の「エヴァンゲリオンとは何を読み取れる物語なんだろう」の解答だ。

そのことについて、簡単に書く前に、ちょっと回り道をして「シンジくんは庵野監督なんだろうな」ということを書いておかないといけない。

エヴァは庵野監督の心象風景とか自分の境遇を反映させた物語ということは、色々な場所で言われていて、多分そうなのだろうと思う。

でも、私は映画などのエンタメ作品を観る時に作り手の「経緯」から観るのが好きではない。

私は庵野監督と会って話したことも無いから、どんな人かは、本やテレビやネットで得た情報しかない。

そもそも、庵野監督が今まで、どんな人生を歩んできたのかも分からない。エヴァの解説の文章を読むと、庵野監督の経歴から作品を解説しようとする文章によく出会う。でも、そういう文章に出会うと私は「それは本当のことですか?庵野監督に聞いたんですか?そもそも、何十年も前の他人のことを正確に書けるんですか?」と聞きたくなってしまう。

更には、作品に庵野監督の人生がどんな風に反映されているかも分からない。

庵野監督の作品に限らず、作り手の経緯なんて受け手には分からないし、そもそも、作り手の何が作品に反映されているかなんて、絶対に分からない。

知ろうとすると見方が歪むとさえ思う。

作品は経緯ではなく、作品を以て語るべきだと私は考えている。

「シンジくんは庵野監督」という話も何度もエヴァの感想文で見かけたけど、作り手が登場人物に自分の経験を投影するのは、当たり前のことだ。作り手の頭の中から出たものなんだもの。

別にシンジくんだけじゃなくて、ゲンドウもそうかもしれないし、ミサトさんかもしれないし、綾波やアスカでもおかしく無いと思う。むしろ、全ての登場人物に庵野監督が投影されてると言っても良いんじゃないかな、と思う。

むしろ、私は作り手は自分の経験以上のものを作って、受け手に届けるべきだと思う。安易に「登場人物に作り手の人生が反映されている」という言葉は、その真偽がどうあれ使うべきではない。

だって、面白く無いやん、そんな安易な評価。

それに、シンジくんは庵野監督だとしても、私は庵野監督の人生にあまり興味が無い……と言うと言い過ぎで、ファンだから会って話してみたいな、と思うが、庵野監督の人生を作品に乗せて観せられる意味をあまり感じない。

「あなたの人生を見せられることは、私にとって、何か意味があるんでしょうか」と思う。

こんなに書いてしまったけど、それでも、私はエヴァは「シンジくんは庵野監督なんだろうな」と思っていて、その理由を書くことが、「エヴァンゲリオンとは何を読み取れる物語なんだろう」を述べる道しるべになるので、以下に書いていきます。

庵野監督とはどんな人なのかについて、これまでの作品を観た時に、私が感じるのは、多分、庵野監督は「アニメ表現がめちゃくちゃ上手い人」なのだろうということ。

庵野監督のアニメを観た時に、表現がすごくダイナミックであったり、逆に繊細だったり、こんなの今まで観たことがない!と驚くこともあれば、逆に、ああ、これ、どこかで観たことがあるなぁ!と懐かしく思うこともある。画面に力が有って、動画もカッコいいだけじゃなく、静止させても、どこを取ってもカッコいい。

視覚的なところだけじゃなくて、エヴァで好きだったのは、セミの音とか、工事現場の音とか。こういう表現がとにかく上手い。

庵野監督はアニメ表現について、誰よりもセンスが有り、実行する能力が有る。世界一と言っても良いかもしれない。これは間違いないと思う。

でも、もう一つ思うのは、「作品を通して何かを伝えたい」という衝動が少ない人なんじゃないかな、ということ。

「映画とは何か」という定義は色々とあると思うが、私が好きなのは「『表現』と『ストーリー』のコラボ」というもの。

この定義は昔、何かで見たことがあって、誰の言葉か分からなかったのだけど、最近、スタジオジブリの鈴木敏夫さんがラジオで「アニメ映画を作る時に考えることは2つある。『表現』と『ストーリー』だ」ということを言ってて、鈴木敏夫さんの言葉だったか、と納得した。

そして、鈴木敏夫さんは「宮崎駿監督は『表現』の人」とも述べていた。

宮崎駿監督は壮大な物語を紡ぐ「ストーリー」の人でしょ、と思う方もいるかもしれないが、私も鈴木敏夫さんの意見に納得してる。

なぜかというと、似たような話で黒澤明監督があるので、紹介します。

黒澤明監督の映画の脚本を書いた橋本忍さんの本「複眼の映像」にこんな事が書いてある。

黒澤明監督の助監督を務めたことがある野村芳太郎監督から橋本忍さんは、黒澤監督は橋本忍さんと出会うべきではなかった、と言われたとのこと。

橋本忍さんは黒澤明監督がヴェネツィア映画祭でグランプリである金獅子賞を獲った「羅生門」の脚本を書いた人。

「羅生門」以来、黒澤監督は「世界のクロサワ」になった。

しかし、野村監督曰く、黒澤明監督は「羅生門」のような深いテーマの映画を撮ってしまったから、映画にとって無縁な、思想とか哲学、社会性まで以降の映画に持ち込むことになった。

黒澤監督の演出力は世界的なレベルを超えており、映画とは無縁な余計なものがなければ、もっと純粋にすごい映画を撮っただろう、と。

橋本さんはそう言われて、それは違うと思いつつ、何も言えなかったとのこと。

(橋本忍著「複眼の映像」PP290~292より)

野村監督曰く黒澤明監督は演出力の監督、つまり「表現の人」ということだと思うのだけど、これにも私は何となくだけど、強く納得してる。黒澤明監督の映画、宮崎駿監督、庵野秀明監督と同じく、とにかく、どこを切り取ってもカッコいいと思う。

実写、アニメに限らず、巨匠になると、観客の多くは作り手に深淵なテーマのある壮大な「ストーリー」を作品に期待するような気がする。だけど、それは、橋本忍さんの本で書かれた野村監督の言葉のように、作り手にとってはあまり幸せではないことなのかもしれないとも思う。

逆に「ストーリー」にパラメータを振って、「何かを述べたい」と言っている作り手は誰かな、というと、やはり、我々の世代では新海誠監督とかなのかな、と思う。

そう考えて、私は庵野監督は、黒澤明監督や、宮崎駿監督と同じく「表現の人」として、バイアスをかけずに単純に観るべきじゃないかな、むしろ、そうやって見る方が正しいのではないかな、と考えている。そういう視点で純粋に作品を観る限り新海誠監督とは違って、「積極的に自分の意見を言いたい」人ではないのではないか、と思ってる。

なぜ、庵野監督は積極的に意見を言わないのか、について。

これは(私の妄想に近いのですが)、庵野監督は言いたい事が自分で「分からない」のではないか、と私は思っている。

これは特にエヴァだと顕著で、「エヴァンゲリオン」という作品の全体のテーマの一つは「分からない」だと思う。

自分は誰なのか。

他人とどうコミュニケーションを取れば良いのか。

なぜ戦わなければならないのか。

自分はここにいても良いのか。

全てが「分からない」

そんな主人公や登場人物達が、時に「分かりそう」になりながらも、結局は「分からない」に戻って、もがき苦しむ。

作品の中でそれぞれの問いについて、「どうすれば良いのか」について、明確に示されることは無かったように思う。これは庵野監督自身が答えを持っていないからだと私は考えている。

つまり、「どうすれば良いのか」の答えについて、「描かなかった」のではなくて、「描けなかった」のではないか。

「その答えは〇〇です。それを伝えたい」という一般に「テーマ」と言われるものが無く、言ってみれば「いつまでも、分からないまま」を「逆に」テーマにして、表現の天才が自分(とスタッフ)の才能の限りを尽くして作ったアニメ、それがエヴァンゲリオンという作品ではないか、と私は思う。

さて、ここまで書いて、強引に話を戻す。

才能も実力も確かに有る。でも、何をすれば(伝えれば)良いのか分からない。これが庵野監督。

では、シンジくんはどんな人だろう。

これは貞本義行さんのコミック一巻のセリフだが、シンジくんはこう述べている。

「僕には将来なりたいものなんて何もない。夢とか希望のことも考えたことがない。14歳の今までなるようになってきたしこれからもそうだろう」(貞本義行著「新世紀エヴァンゲリオン」第一巻冒頭)

シンジくんは、世界最強のロボット(人造人間、と言いたいところだか、一般的な話にしたいので、敢えてこの表現)を動かす事が出来る才能がある。人類を救うことも、場合によっては世界を滅ぼすことも出来るだろう。

だけど、シンジくんは何をしたいか分からない。

才能も実力も確かにあの世界で一番、有る。でも、何をすれば良いのか分からない。これが碇シンジくん。

という感じで、「才能も実力も世界で一番有る。でも、何をすれば良いのか分からない」という点に於いて、「シンジくんは庵野監督」ということを自分なりに証明できたと思っている。

シンジくんが庵野監督だと(執拗に)確かめたかったのは、シンジくんの行動や結末が、庵野監督自身が「伝えたいこと」になるのではないか、と思うからだ。

何をすれば良いのか「分からない」としても、死ぬまでは、人は生きないといけない。

何もしたく無い、人と関わり合いたくないと、いくら言っても、自身の才能と実力のせいで、周りがそれを許してくれない。自分のせいで、世界中を炎上させてしまったこともある(庵野監督もシンジくんも)

そういう人生で、テレビ版の最終回でシンジくんが叫んだけど明確に示されなかった「ここに居て良い」場所はどこなのだろう。

庵野監督の意見を聞いてみたいな、とシン・エヴァを観る前に思っていた。

そして、さっき、庵野監督の人生を見せられてもしょうがないと書いたけど、実は我々日本人も多かれ少なかれ、庵野監督と似ている部分があると思う。

残念ながら発展しているとは言えないものの、日本は世界有数の国の一つで、国民もそれなりなに優秀な技術や能力がある人が殆どだと思う。

もちろん、世界一では無いし、制約もあるのだろうけど、もっと大変な他の国に比べれば、世界の中で自由にしたい事が出来ると思う。国民の多くも義務教育でそれなりに高い水準で教育を受けていて、それなりに優秀。これだけの国力と国民であれば、アメリカみたいには無理かもしれないけど、近くの国を引っ張ってリーダーにもなれるだろうし、もし意思があれば、戦争だって出来るだろう。

でも、そんなことはしない。しないと言うか、国や国民の目標みたいなものが無いので、自分の力を使って何かを成そうという雰囲気が無い(例えば中国とは対照的だ)。

庵野監督は全てが「分からない」とか、「テーマが無い」とか書いたけど、じゃあ、自分自身に有るかと聞かれると、詰まる人も多いと思う。

才能も実力も確かに(それなりに)有る。でも、何をすれば良いのか分からない。これが多くの日本人。

つまり、イコールとは言えないかもしれないけど、庵野監督≒日本人くらいは言えるのでは無いか。

だから、庵野監督=シンジくん≒日本人ということで、シンジくんの行く末を見ることは、庵野監督の考える「私たち日本人がどうすれば良いのか」というエヴァの本編では示されなかった日本社会に向けた「テーマ」を、遂に目の当たりにすることなのではないか。

こんな風に考えながらエヴァを観たのですが、その結末はどうだったかというと…

シンジくんがエヴァを通じて関わった全ての人たちと、ケジメをつけていく。

そして、目を覚ますと、そこは駅でした。

駅!!

なるほど!!

と、私は個人的には、凄く良いな、と思った。

小さい部分だと、まず、心象風景と思っていた夕暮れの電車に乗るシーンについて「伏線」が回収される。

シンジくんはエヴァンゲリオンという電車にずっと乗ってたんだな、と。

確かに電車という乗り物は、移動しているのは間違いないけど、自分が動かしているわけでは無いし、電車の中であれば歩いたりは出来るものの、乗っている電車からは自由に降りることも出来ない。乗ったことが無かったり、行先が分からなければ、とても不安になる乗り物だと思う。

そして、「駅」というチョイスに本当に驚いた。

ここまで、読んで頂いた方にお聞きしたいのだけど、「駅」という「場所」はスタートでしょうか。ゴールでしょうか。

ホームから階段を駆け上って、改札を出たシンジくんとマリは、ゴールに辿り着いたのだろうか。それとも、新しい目的地に向けて、スタートしたのだろうか。

私は「両方」だと思う。「駅」はゴールでありスタートでもある。何かの終わりではあるけれど、何かの始まりとそのまま繋がっている「場所」だと思う。

シンジくんは、「ここに居て良い」と思う「場所」は最後まで分からなかったのだと思う。それは庵野監督もそうだし、私たちもそうなのだろう。

才能も実力も確かに有る。でも、何をすれば良いのか分からない。

そんな庵野監督やシンジくん、そして、もしかしたら私たちはどうすれば良いのか。

庵野監督がエヴァンゲリオンという作品を通して、私たちに示してくれた答えはこうだと思う。

前に進み続けるしかない

駅から駅へ。スタートからゴールへ、そして、新たにスタートする。

これを繰り返し、何度も何度も何度もやっていくしかない(THRICE UPON A TIME

辛いことも悲しいことも失うこともあるだろうけど、楽しいことや嬉しいこと、何かを得ることも有るだろう。そして、色んな人との出会いの中で、もしかしたら、一緒に前に進んでくれる人が見つかるかもしれない。

何をすれば良いのか分からない。

それなら、前に進み続けるしかない。

これがエヴァンゲリオンという作品で庵野監督が最後に伝えてくれたことではなかったか。

私はそう感じました。

あと、もう一つ書いておかないといけないのは、あのラストで本当に良かったと思うことがあるということ。

私はシンジくんは多分今後の人生でエヴァンゲリオンとは、別の電車に乗るんだろうな、と感じた。

でも、それと同時に「多分、大丈夫そう」と何となく実感出来た。

辛い経験を沢山したのだろうけど、声も変わって成長して、マリに行こうと呼ばれて答えた後のあの表情と疾走感が有れば、多分、私たちが見守って応援しなくても、もう大丈夫。

何となくだけど、そう感じられたあのアニメーションの描写は見事だと思いました。

私のエヴァンゲリオンから読み取ったこと、というか総括はこんな感じです。

なんで、こういうことを書いたかというと、もちろん、庵野監督の「シン・仮面ライダー」が公開されるから(シン・ウルトラマンも脚本とかで色々携わってるんだろうけど、やっぱりあの映画は樋口真嗣さんが監督したんだから、樋口監督の作品として見るべきだと考えてる)

「前に進むしかない」と言った人が、前に進んで、どんなものを作っていくのか。

それを、私たちは見ていかないといけないと思う。

こんな感じのエヴァの自分なりの総括でした。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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