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反出生主義について考える ーその危険な魅力と最大の懸念ー

初めに 私の問題意識

 反出生主義を初めて知った時、危険な魅力を感じたのは私だけだろうか。恐らく、そうではないと思う。反出生主義の思想に始めて触れた時、唾棄すべき危険な思想だと感じる人もいれば、何か大きな説得力と不思議な魅力を感じた人も多いように思う。かくいう私も危険な思想だと感じると同時にそれ以上の説得力を憶えた。そして、私はこう直感した。この説得力は、私自身が順風満帆な人生を送っていない事や不幸な人生を嘆く人々に同情する気持ちによってのみ起因するものではない、と。それが、私の反出生主義に関心を持った理由なのであるが、その疑問には、ある程度納得のいく解答を見つけている。
 本稿では、その解答と私が反出生主義について考える中で新しく問題意識として浮かび上がってきた反出生主義における最大の懸念事項について論じていきたい。また、わたしの反出生主義についての知識はインターネット上の知識を除けば、森岡正博『生まれてこない方が良かったのか?生命の哲学へ』,森岡正博・戸谷洋志 他『現代思想2019-11「反出生主義を考える」』,デヴィッド・ベネター『生まれてこない方が良かった 存在してしまうことの害悪』の3冊の書籍による。

一章 周辺概念の整理と導き出される魅力の原因

 本章では、反出生主義の魅力、その謎に接近することを目的とするが、そのためにまず、反出生主義とその周辺概念の関係性について整理する。そして、反出生主義のその魔性の魅力は周辺概念との対比により克明に現れる。また、反出生主義の周辺概念とは何を想定しているのかについてだが、ここでは所謂出生主義と生命の哲学を想定している。
 まず、一般に二項対立であると考えられている反出生主義と出生主義の関係性について考察する。この両論の関係性について、私は一つの事実を指摘する。それは、反出生主義と出生主義は対立する思想に見えるがそうではなく、優先させる点(倫理的な価値判断の基準)が異なるだけで本来的な対立構造にはない、ということだ。それは、反出生主義は個(将来生まれてくる存在)の幸、不幸に依拠し論を建てるのに対し、出生主義は世界に対して論を建てる{(世界の善さの再生産の条件としての出生)ex)アーレント:活動の始まりとして、政治的な公共性の維持としての出生・レヴィナス:繁殖性・ヨナス:存在論的命令}ことからわかる。
 出生主義が世界の善さ、持続性により出生、或いは人間の再生産を要請する時、将来生まれ出ずる存在の幸不幸はニ次的なものに過ぎない。その場合「生まれてこない方がよかった」という思想とそれは両立可能となる。つまり、二つの違いは「生まれてこない(orきた)方がよかったのかどうか」という個人の人生にどれだけの倫理的価値を置くのかという部分にある。
 以上の論を纏めると、反出生主義と出生主義は表明的には対立しているように見えるが、本来的な対立関係にはないということ。そして、二つの違いというのは、個人の人生の幸福(不幸)にどれだけの倫理的な価値を置くのかという点にあるということがわかる。また、この差異に対しては、個人主義的なものと社会的なもの・共同体主義的なものとのより本来的な対立のひとつの現れに過ぎないのではないか、とも考えられる。
 次に、生命の哲学との関係性について考える。生命の哲学という言葉は聞き慣れない人も多いかもしれない。それもそのはずで、これは森岡正博氏が構想している新しい哲学のカテゴリーであるからだ。私なりの解釈では、生命の哲学とは出生を個の立場から肯定する哲学であり、世界、社会の善さや維持のためではなく個の人生に重きを置き「生まれてきてよかった」と誕生を肯定する立場の哲学である。この生命の哲学こそが、反出生主義と本来的な対立関係にある思想なのである。
 それはつまり、「生まれてくるべきではなかった」の反対には「生まれてきてよかった」が存在し、生命の哲学は反出生主義と同じく個の人生を論拠に出生の是非を語り、そこに倫理的価値を置くということだ。
 まとめると反出生主義と対立関係にあるのは生命の哲学であり二つは出生を肯定的に捉えるのか否定的に捉えるのかという点で本来的な対立関係にある。そして、所謂出生主義(世界や社会のために出生、或いは再生産を要請するもの)は反出生主義とも生命の哲学とも論点が異なりその出生の是非を個の人生からは切り離して論じる、ということになる。
 前置きが長くなってしまったので、本題に戻す。それは、反出生主義の耐え難き魅力についであった。しかし、勘の良い人はお気づきのように、実はそのロジックは既にほとんど示されている。言ってしまえば、反出生主義のその魅力は個の人生を重要視する点にある。所謂、出生主義の批判自体はエーデルマンの生殖的未来主義批判、或いは再生産的未来主義批判であったりフェミニズムの見地からも「産む機械としての女性」に関連する批判(特に、マルクス主義フェミニズムや、フェデリーチによりキャリバンと魔女で示された資本主義による産むこと(再生産)の強制への批判は出生主義による社会が再生産を要請することの肯定へのかなりcriticalな批判に見える)等様々に存在したが、直接に、社会のようなものからの要請による出生を否定し個の人生、その幸福(或いは不幸)を重要視した思想は反出生主義のみであろう。この、ある種リベラルでヒューマニズム的な特異性が反出生主義の魅力なのである。

二章 反出生主義から繋がるディストピア、または「幸福になれるものだけが生まれてくるべきだ!!」

 一章では、反出生主義のその魔性の謎に接近した。本章では、反出生主義が非常に危険な言論について接続されかねないという点を指摘したい。また、このような主張を書籍やネット上で見かけたことがないので、もし知る人がいれば教えていただきたい。最後に、そもそもこの指摘に誤りがあると言う場合も当然受け入れるので、是非お願いしたい。では、早速本題に入っていく。
 私の反出生主義における最大の問題意識であり、最大の懸念事項(少なくとも私はそう思う)とは反出生主義が「出生が特権になる社会」を肯定しかねない点にある。この問題は、反出生主義が個の人生にプライオリティを置いた思想である事から生じる構造的欠陥であると言ってもいい。
 極端な存在害悪論(どれだけ幸福な人間であってもほんの僅かな不幸がその人生に存在すれば人は生まれてくるべきではなかったと考える思想)以外の反出生主義では現実社会がどのような状態であるのかによって取るべき立場が変わる。(厳密には極端な存在害悪論ですら、死が克服された社会や生産力が無限に拡大された社会などを想定すれば普遍的な思想ではなくなる。もっと言えばそのような社会では反出生主義は消えてなくなる可能性すらある。)
 これは、反出生主義が(同時代を生きる人々にとって)普遍的な判断を下す思想にはならないことを意味する。なぜなら、社会においてはあらゆる面での不平等が存在するからだ。経済的な不平等に始まり、遺伝的な知能、運動能力、身体的差異、容姿に至るまで、現実社会というのは徹底的に不平等なものとして存在している。このような社会において、個の人生の幸福を基準に出生の是非を判断することが恐ろしく危険であることは想像に容易い。(そして、出生前診断等において既にその問題は存在している。)
 簡潔にいえば、反出生主義は、その価値判断基準が個の人生の幸福、不幸に依拠するものであることから、社会の中に不平等が存在する時、出生の是非が生まれ出る環境の優劣によって決まる思想に繋がる可能性があるということだ。
 この思想の恐ろしいところは、その内容もさることながら以下の二つにあると考える。第一に、生命の哲学からもこの思想への接続可能性が存在すること、第二にこの思想が非常にリアリティを持つことである。
 まず、生命の哲学からも接続可能性が存在することについてだが、これは生命の哲学が反出生主義と同じく個の人生を価値判断の基準におくことを考えれば当然とも言える。従ってこの「出生が特権になる社会」への接続は反出生主義特有の問題というよりも個の人生にプライオリティを置く思想における問題と言えるだろう。
 また、これは余談になるが生命の哲学もその依拠する理論的支柱に個の人生を置いたことでこのような思想へと接続されてしまうことを考えればヨナスが存在論的命令おいて個の人生から切り離した所から出生を論じたことの意義をよく感じることが出来る。私はヨナスも含め出生主義的思想には反対の立場だが、この問題を考えるに当たって出生主義的な思想への評価を大きく見直すことになった。(詳しい内容は現代思想「反出生主義を考える」において戸谷洋志氏のハンス・ヨナスと反出生主義を是非読んでいただきたい。とても示唆にとむ内容で反出生主義を考える上でヨナスを含めた出生主義と呼ばれる思想家を学ぶことの意義を感じることが出来る。特に、良心的なペシミストを説得するために生まれた存在論的命令の内容は必読といってもいい。)
 脱線しすぎたので話を戻す。次に考えるのは「出生が特権になる社会」への接続が持つリアリティについてである。この、「幸福になれるものだけが生まれてくるべきだ」ともいうべき思想はどことなく使い古されたディストピア作品の設定のような既視感をも生む。それだけ人々から受容されやすい納得感を持っている証左だが、本当に恐ろしいのは「新自由主義」と「優生思想」への親和性だ。この思想が想定する社会は弱肉強食的な規範において理想的だろう。
 このような社会の在り方は、我々の生きる社会を取り巻く新自由主義や優生思想によって間近に迫っている。(新自由主義は資本主義と共に優生思想は暗黒啓蒙と共に非常に身近に存在する。また、暗黒啓蒙についてはこのnoteでも触れているので関心のある方は是非ご一読いただきたい。)
 現代思想「反出生主義を考える」に収録されている森岡氏と戸谷氏の対談の中で、反出生主義につきまとう知的パズルとしての側面の強さについて言及があった。そこでは、その当事者性のなさについて当事者達の絶望をコンテンツ的に消費しているとの批判がなされていた。しかし、私はむしろ知的パズルに収まっているうちは反出生主義にそこまでの危険性はないと考える。
 反出生主義(生命の哲学も含む)が出生を特権にする思想に変化した時こそ、そこにあった知的遊戯の様相は消え去り、社会の不平等な現実と接続されリアリティを持った暗黒の思想へと変貌するだろう。
個の人生にプライオリティをおいた価値観は所謂、社会、世界に要請されて出生を肯定する出生主義に対し一見リベラルで道徳的であるかに思えるが、「幸福になれるものだけが生まれてくるべきだ」を標語にしたディストピア思想へと繋がりかねない、ということだ。

終わりに 生命の哲学への期待

 二章では、反出生主義と生命の哲学に通ずる危険な問題について論じた。しかし、私は生命の哲学が反出生主義と同じ問題をはらんでいるからダメだ、と言いたいわけではない。一章で明らかにしたその魅力は生命の哲学にも当然当てはまるし、人生を肯定するその思想でこそ個の人生に重点を置く思想は燦然と輝く。
 そして、忘れてはならないのが、生命の哲学はこれから作り上げられる学問であるということだ。森岡氏や優秀な哲学者がこの問題に関するアンサーを見つけてくれるに違いない。最後に、私が現時点で「幸福になれるものだけが生まれてくるべきだ」の問題について考えていることを示して本noteを終えたい。
 二章で示した通り、個の人生にプライオリティを置く思想は社会の中に不平等があることを前提として出生の是非までが不平等になる社会へと接続される。ならば、不平等が存在しなくなればなんの問題もなくなるわけだ。そして、これは無意味な哲学的想定ではない。社会から完全に不平等が消えることはなくとも平等へと接近することは可能だからだ。つまり、私が言いたいことは、生命の哲学は平等な社会システムの構築を目論む思想とセットであるべきということだ。同じ個の人生を中心に考える反出生主義が、諦めの思想であるのに対し、生命の哲学が肯定の、進歩の思想であるならばこの要素は必須であるように思う。以上が「出生が特権になる社会」への接続に関する問題に対し私が現時点で考えていることだ。
 このnoteはとりあえずここで終えたいと思う。しかし、反出生主義については周辺概念も含め考えていることがたくさんあるのでそれもまた文章にしたいと考えている。その際はぜひまたご一読願いたい。

 ここまで読んで頂いたことに感謝の念を申し上げてこの文章を終える。

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