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加藤のファミリーヒストリー7

当時新聞を4紙とっていた加藤家では、食事の時間に子供達はその日の新聞について語るルールがありました。妻みつも新聞を読むことが日課だし、好きだったようで、忙しい時は「まだ新聞も読んでないのに、、」とぼやくときも新聞基準でした。そうやって加藤家は読むこと、考えること、自分の意見を持つことを自然に育まれていたようです。

福沢諭吉先生の影響を強く受けている清は娘たちにも自立できる資格を取るよう教育します。
長女登美子は薬剤師になるよう東京薬科大学に
次女君枝は音楽が好きだったので教師になるよう埼玉大学の教育学部に進学します。


余談ですが
当時東京大学に隣接していた薬科大学に通っていた登美子は東大の混声合唱サークルに入ります。
コーロソーノというサークル。君枝の話によれば、5月祭での演奏の時に、譜めくりがいなくて頼まれたとか、指導は芸大を卒業した小原光一氏が初代の指揮者でしたが、彼はのちに君枝の夫となる襄治の友人だとわかります。
コーロソーノもメンバーもたびたび加藤家には遊びに来ていたそうです。
今年、縁あって5月祭に行き、そのことを母君枝に報告して、このことを知りました。そしてコーロソーノは今でも活動を続けているのです。


1958年5月3日 東京薬科大学を卒業した登美子は茨城県土浦市の薬局の息子奥井清と結婚します。
清と同じ名前の婿は婚約した頃の正月のこと。
いつものように加藤家にはコーロソーノのメンバーなどたくさんの友人が集まっていました。
そこで婿の清は落語を披露します。
ところがこれが、、

面白くなかった(笑

その場にいた家族も友人たちも、お愛想で笑ったもののどうリアクションしていいか戸惑ったまま。
それでも奥井清が帰った後に弟尚武が言いました
「登美子ちゃん、あの人と結婚するのがいいよ。あんな面白くない落語できる人きっといい人だよ」
家族みんなに「いい人」と同意され
登美子は土浦の薬局を経営する奥井家に嫁いで行きました。

登美子は薬局の仕事をしながらも、地気活動にも励みました。霞ヶ浦の水質改善に尽力し、さらには書くことの好きな加藤家の性分なのか、地域活地元の新聞にエッセイも書いていました。「くずかごの唄」というエッセイには彼女の結婚の時の思い出も記されています。


くずかごの唄より

なんの因果か憲法記念日に結婚した我々は早速二人の憲法を作った。その第三条に、朝は起きてあげません。。。とういう条文がちゃあんと入っているのである。
入れようと提案したのはもちろん私であり、彼はその提案を採択したのである。





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