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「読んでいない本について堂々と語る方法」

「読んでいない本について堂々と語る方法」(ピエール・バイヤール 大浦康介 ちくま学芸文庫)

フランスの大学教員である著者による、本を読まないことを正当化する本。タイトルだけでインパクト十分な本である。裏表紙の紹介文も秀逸である。「本は読んでいなくてもコメントできる。いや、むしろ読んでいないほうがいいくらいだ―大胆不敵なテーゼをひっさげて、フランス文壇の鬼才が放つ世界的ベストセラー。ヴァレリー、エーコ、漱石など、古今東西の名作から読書をめぐるシーンをとりあげ、知識人たちがいかに鮮やかに「読んだふり」をやってのけたかを例証。テクストの細部にひきずられて自分を見失うことなく、その書物の位置づけを大づかみに捉える力こそ、「教養」の正体なのだ。そのコツさえ押さえれば、とっさのコメントも、レポートや小論文も、もう怖くない!すべての読書家必携の快著。」

フランスの変わった人が書いた本だろうと思って読み始めたが、意外に面白く、読書というものをある意味で的確にとらえていると感心した。本を読んでいないにもいろいろあるという主張は確かにその通りであり、「読んだ」「読んでいない」の間にもいろいろな状況があり得る。さらに、全く読まないというスタンスもあり得るとの主張にも説得力があった。
タイトル通りに、この本も読まずに批評できたら良かったのだが、非常に面白く読んでしまった。

以下は、この本の引用である。

I 未読の諸段階(「読んでいない」にも色々あって…)
I-1 ぜんぜん読んだことのない本

「その司書は、世界中のすべての書物とはいわないまでも、帝国の図書館の何百万という蔵書のなかで自分を見失わない方法を見つけ出したのである。それはきわめて単純な方法で、その運用も同じく簡単だった。」(中略)「つまり、有能な司書になる秘訣は、自分が管理する文献について、書名と目次以外は決して読まないことだというのです。「内容にまで立ち入っては、司書として失格です!」と、彼はわたしに教えてくれました。「そういう人間は、絶対に全体を見晴らすことはできないでしょう!」(28-29ページ)

「教養があるかどうかは、なによりもまず自分を方向づけることができるかどうかにかかっている。教養ある人間はこのことを知っているが、不幸なことに無教養な人間はこれを知らない。教養があるとは、しかじかの本をよんだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。ここでは外部は内部より重要である。というより、本の内部とはその外部のことであり、ある本に関して重要なのはその隣にある本である。
したがって、教養ある人間は、しかじかの本を読んでいなくても別にかまわない。彼はその本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係は分かっているからである。つまり、その本が他の諸々の本にたいしてどのような関係にあるかは分かっているのである。ある本の内容とその位置関係というこの区別は肝要である。どんな本の話題にも難なく対応できる猛者がいるのは、この区別のおかげなのである。」(33-34ページ)

「ある本についての会話は、ほとんどの場合、見かけに反して、その本だけについてではなく、もっと広い範囲の一まとまりの本について交わされる。それは、ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体である。私はここでそれを<共有図書館>と呼びたいと思うが、ほんとうに大事なのはこれである。この<共有図書館>を把握しているということが、書物について語るときの決め手となるのである。ただし、これは<共有図書館>を構成している諸要素間の関係の把握であって、切り離されたしかじかの要素の把握ではない。そしてこの意味で、大部分の書物を読んでいないということは何ら障害にはならないのである。」(35-36ページ)

I-2 ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本

「また、河岸の本屋の店先に積み上げられたあの書物の山ほど見るに耐えないものがあるでしょうか。あの何百万という巻本や冊子は、まるで時の流れに見放され、セーヌ河岸に打ち上げられた知的漂流物ではありませんか。」(53ページ)

「しかし、この流し読みという読書法が幅広く実践されているという事実は、読むことと読まないことの違い、ひいては読書そのものの概念を大きく揺るがさずにはおかない。一冊の本を全部は読まないにしても、ある程度は読んだ人間を、どのカテゴリーに入れるべきだろうか。何時間も読んだ人間はどうか。もし彼らがその本について語ることになったら、彼らは本を読まずにコメントしていると言えるだろうか。」(63ページ)

I-3 人から聞いたことがある本

「このように、教養とは、書物を<共有図書館>のなかに位置づける能力であると同時に、個々の書物の内部で自己の位置を知る能力である。この二重の方向づけの理論からいえることは、一冊の本について何らかの考えをいだき、それを表現するのに、その本を手にしている必要はないということだ。読書の観念はこうして物質的な書物の観念から離れ、出会いの観念に結びつくことになる。この出会いは、非物質的な対象との出会いであってもまったくかまわない。
じつは、本を読まずに本の内容をかなり正確に知るもうひとつの方法がある。それは、他人が本について書いたり話したりすることを読んだり聞いたりすることである。この方法は、ヴァレリーがプルーストについて語るさいに公然ととった方法だが、これを採用すればずいぶん時間の節約になる。(中略)これが珍しい方法だと思うのはまちがいである。われわれはしばしばこの方法で本にふれているのだ。われわれが話題にする多くの本は、人生で重要な役割を演じた本も含めて、手にとったこともない本なのである(われわれはよくそうではないと思い込んでいるが)。他人がある本について語ってくれたり、仲間うちで話題にしているのを聞いて、その本の内容を知ることは多い。場合によっては評価を下したり、それを論証したりすることすらある。」(66-67ページ)

「本は、公にされた瞬間から、それが引き起こすさまざまな言葉のやりとりの総体によって存在するものでもある。そしてこうした言葉のやりとりに注意を払うことは、本を読むことにはならないまでも、本に接近する有効な方法なのである。」(78-79ページ)

「われわれが話題にする書物は、「現実の」書物とはほとんど関係がない。それは多くの場合<遮蔽幕(スクリーン)としての書物>でしかない。(中略)あるいは、こう言ったほうがよければ、われわれが話題にするのは書物ではなく、状況に応じて作りあげられるその代替物である。」(84ページ)

I-4 読んだことはあるが忘れてしまった本

「私は、本を読む一方で、読んだことを忘れはじめる。これは避けられないプロセスである。このプロセスは、あたかも本を読まなかったかのように感じる瞬間まで続く。読まないも同然の状態、そんなことなら読まなかったのにと思う状態まで続くのである。この場合、ある本を読んだと言うことは、ほとんどひとつの換喩(メトニミー)である。われわれは、多かれ少なかれ、本の一部しか読まないし、その部分にしても、遅かれ早かれ、時間がたてば消え去る運命にある。こうしてわれわれは、われわれ自身および他人と、本についてというより、本の大まかな記憶について語るのである。その記憶が、そのときそのときの自分の置かれた状況によって改変されたんものであることはいうまでもない。」(89ページ)

「記憶の問題はここではより深刻である。忘れられるのは書物だけでなく、その書物を読んだことじたいでもあるからだ。記憶から消し去られるのは読む対象だけでなく、読む行為そのものでもあるのだ(対象の輪郭は、少なくとも漠然とは頭に残るだろう)。まるで読む対象に関するすべてのものが忘却の淵に沈むかのようである。しかし読んだことすら忘れてしまったような読書を、依然として読書と呼べるだろうか。」(93ページ)

「書物が、知識だけでなく、記憶の喪失、ひいてはアイデンティティーの喪失とも結びついているということは、読書について考察を加えるさいにつねに念頭に置いておかなければならない要素である。これを考慮に入れなければ、読書のポジティヴで蓄積的な側面ばかりを見ることになる。読むということは、たんに情報を得ることではない。それはもう一方で忘れることでもある(こちらの方が大きいかもしれない)。それはしたがって、われわれの内なる、われわれ自身の忘却に直面することでもあるのだ。」(101ページ)

II どんな状況でコメントするのか
II-1 大勢の人の前で

「ここから分かることは、マーティンズが何をどう答えようと、それは議論が成り立つかどうかには直接影響しないということである。議論はふつうに続いてゆくのである。というのも、ここでの対話は、現実の空間とは別の空間で繰り広げられているからだ。その空間は、むしろ夢の空間に近いもので、われわれの通常の会話を取り仕切っている法則とは異質の、独自の法則をもっているのである。」(112ページ)

「マーティンズが置かれた状況は、公開講演会という状況である。ここでは、作家は自分が語っていることになっている本を読んでいないが、対する聴衆も、彼が書いた本を読んでいない。これはまさに「耳の聞こえない者どうしの対話」と呼ばれるものの典型例である。
この種の対話状況は、「第三の男」では誇張して描かれているが、書物について語る場合には、われわれが考える以上によくある状況である。話し手のうちの誰も、話題にしている本を読んでいない、あるいはざっと読んだだけというのはよくあることで、その場合はみんなが別々の本についてコメントしているも同然である。」(120ページ)

「ここでの問題は、じつは一冊の書物の枠を超える問題である。「耳の聞こえない者どうしの対話」が起こる原因は、マーティンズの場合のように、たんに二人の作家のあいだの違いにあるのではなく、二つの陣営が、二つの別々の書物の集合体、というより、互いに異なり、対立する二つの<図書館>を出発点として対話しようとしているということにもあるのである。競合関係に入るのは、たんに二冊の本だけではない。それは二系列の名前のリストであり、その背景にあるのは、深層において異なる、互いに相容れないとすらいえる、二つの教養の対決なのである。この書物の集合体を、私は<内なる図書館>と呼びたい。それは<共有図書館>の下位に分類されるべき集合体で、それにもとづいてあらゆる人格が形成されるとともに、書物や他人との関係も規定される。そこにはたしかにいくつかの具体的なタイトルも見られるが、<内なる図書館>を形成しているのはとくに、モンテーニュの読書室と同様、忘れられた書物や想像上の書物の断片である。それらをとおしてわれわれは世界を把握しているのである。」(121-122ページ)

「このように、われわれが一冊の本だけについて会話を交わすということはけっしてない。ある具体的なタイトルを介して、一連の書物が会話に絡んでくるのであって、個々の書物は、教養というもののひとつの観念全体へとわれわれを導く、この全体の一時的象徴にすぎない。われわれが何年もかけて築き上げてきた、われわれの大切な書物を秘蔵する<内なる図書館>は、会話の各瞬間において、他人の<内なる図書館>と関係をもつ。そしてこの関係は
摩擦と衝突の危険を孕んでいる。というのも、われわれはたんに<内なる図書館>を内部に宿しているだけではないからである。われわれ自身がそこに蓄積されてきた書物の総体なのである。それらの書物は、少しずつわれわれ自身を作り上げてきたもの、もはや苦しみを感じさせることなしにはわれわれと切り離せないものなのだ。そして、マーティンズが自分の師である作家の小説にたいする批判に耐えられないように、われわれの<内なる図書館>の本を中傷するような発言は、われわれのアイデンティティーの一部となったものにたいする攻撃として、ときにわれわれをもっとも深い部分において傷つけるのである。」(122-123ページ)

II-2 教師の面前で

「以上に見たように、ティヴ族の人々は「ハムレット」を一行も読んだことはないが、それでもこの戯曲についていくつかの明確な考えをいだくことができる。そして、私が講義で言及する本を読んだことがない私の学生と同様、この戯曲について議論することも、自分の意見を述べることも難なくできるのである。いや、できるだけでなく、進んでそうしようとするのだ。ただ、彼らはたしかにこの戯曲の内容に関して自分たちの考えを表明するが、かといってその考えは、戯曲を知ると同時にできあがったものでも、それよりあとに生まれたものでもない。それは極端にいえば戯曲を必要とすらしていない。彼らの考えはむしろ戯曲を知る前からでき上がっていたのである。つまりそれは、ひとつの体系として組織された、ある世界観の総体を形づくっているのであって、そのなかにシェイクスピアの作品は迎え入れられ、場を得たのである。」(134-135ページ)

「もっというと、彼らが意見を表明しているのは主として自分たちの<内なる書物>についてなのだから、彼らは、似たような状況に置かれた私の学生たちと同様、シェイクスピアの作品を知る前にそれについて発言することもできたはずである。作品そのものは、いずれにしても、<内なる書物>がもたらす考察の枠のなかで溶解し、消えてゆく運命にあるのだ。」(138ページ)

II-3 作家を前にして

「つまり、自分の本について言われていることが、自分が書いたはずだと思っていることと呼応していないということに気づくという経験である。自分の本について、注意ぶかい読者とゆっくりと話をしたり、長いコメントを読んだことのある作家なら誰でも、この「不気味さ」の経験を味わっている。作家はそこで、自分が言いたかったことと他人が理解したことのあいだの呼応関係の欠如に気づくのである。もっともこれは、作家の<内なる書物>と読者の<内なる書物>の違いにもとづくのであって、そう考えるなら何ら驚くべきことではない。読者がいくら自分の<内なる書物>を作家のそれに重ね合わせようとしても、作家がそれを自分のものと認めることはまずないのである。」(156-157ページ)

「したがって、読んでいない本について著者自身の前でコメントしなければならない状況にある人間に与えられるアドバイスはただひとつ、とにかく褒めること、そして細部には立ち入らないこと、これである。作家は自分の本についての要約や詳しいコメントなどまったく期待していない。それはむしろしないほうがいい。作家がもっぱら望んでいるのは、作品が気に入ったと、できるだけあいまいな表現で言ってもらうことなのである。」(160ページ)

II-4 愛する人の前で

「たとえばわれわれの恋人選びは、読んだことのある小説の登場人物に大きな影響を受ける。われわれは小説をつうじて到達できない理想をいだき、恋する相手をその理想になるべく近づけようとするのである。それがなかなかうまくいかないことはいうまでもない。より広くいえば、われわれが愛した書物というのは、自分が秘かに住んでいて、相手にも合流してほしいと思う
ひとつの世界全体を浮かび上がらせるのだ。二人の読んだ書物がすべて同じだとはいわないまでも、少なくとも読んだ書物のなかに共通の書物があるということは、愛する者どうしが理解しあう条件のひとつである。」(162ページ)

III 心がまえ
III-1 気後れしない

「すでにみたように、ある書物について語ることは、それを読んでいるかどうかにはあまり関係がない。語ることと読むことは、まったく切り離して考えていい二つの活動である。私自身に関していえば、私は本をほとんど読まなくなったおかげで、本についてゆっくりと、より上手にコメントできるようになった。そのために必要な距離---ムージルのいう「全体の見晴らし」---がとれるようになったからである。本について語ること、ないし書くことと、本を読むこととの違いは、前者には、顕在的であれ潜在的であれ、第三者が介在するということである。この第三者の存在が読書行為にも変化を及ぼし、その展開を構造化するのである。」(177ページ)

「ある書物がどのようなものであるかを知り、それについて語るのに、その書物を読んでいる必要はいささかもない。読んでいなくても、一般論的なコメントだけでなく、踏み込んだコメントすら可能である。というのも、書物は孤立しては存在しないからだ。一冊の書物は、私が<共有図書館>と呼んだ大きな全体のなかの一要素にすぎないので、評価するのにそれをくまなく読んでいる必要はない(デンプシーには彼が語っている本がどんなジャンルに属しているか分かっている)。大事なのは、それが<共有図書館>のなかで占める位置を知ることである。その位置は、ひとつの単語がある言語において占める位置に似ている。一個の単語は、同じ言語に属する他の単語との関係において、また同じ文中にある他の単語との関係において位置づけられてはじめて意味をもつ。」(182ページ)

III-2 自分の考えを押しつける

「いずれの場合も、本は物質的には変化しないが、<共有図書館>の要素としては変容を蒙るのである。(中略)コンテクストに関心を向けることは、書物というものは永遠に固定されてあるものではなく、動的な対象であり、その変わりやすさは部分的には書物の周りで織りなされる権力関係総体に由来している、ということを思い出すことである。もし著者も書物も変わるものだとしたら、読者はどうだろうか。少なくとも読者だけは変わらないとは言えないだろうか。これもじつはきわめて疑わしい。」(221ページ)

III-3 本をでっち上げる

「本というものは、[物理的な意味での]本である以上に、本が人の手から手へと渡り、変化してゆく言説状況の総体である。だとするなら、読んでいない本について正確に語るためには、この状況にこそ敏感でなければならない。というのも、問題となるのあは本ではなく、本が介入し変化してやまない批評空間において、本がどう変わったかということだからである。この変化する新たな対象は、テクストと人間との諸関係からなる動く織物である。未読書について語るための、時宜を得た、正しい方法が提案できるためには、まさにこの対象を視野に置かなければならない。ここでいう本の変化は、たんに本の価値にかかわる変化ではない。バルザックにおいて見たのは、たしかに本の価値が著者の政治的・社会的立場の変化にともなっていかに迅速に変わるかということだったが、変化するのは本の内容でもある。本の内容は、本の価値より安定しているわけではなく、それについて交わされる言葉のやりとりに応じて大きく変化しうるのだ。しかしこのテクストの変わりやすさを不都合ととらえてはならない。これを逆に利点と考えることができる者には、これはひとつのチャンスである。すなわち自分も創作者(ただし読んだことのない本の)になるチャンスなのである。」(227ページ)

「以上から分かるように、書物についての議論が招来するのは、金縁眼鏡の美学者が信じているのとは裏腹に、真偽の概念がかなり有効性を失うような空間である。第一に、自分がある本を読んでいるかどうかを明確に知るのはむずかしい。読書の記憶というのはそれほどはかないものだからである。次に、他人がそれを読んでいるかを知ることはほとんど不可能である。読んでいるということは、まず彼ら自身がこの問いに答えられるということだからだ。そして最後に、テクストの内容というのは不鮮明な概念である。何かがそこにないとはなかなか確言できないものなのである。」(240ページ)

III-4 自分自身について語る

「残念ながら、ワイルドは学生から遠ざけておくべきこの悪書百点のリストをわれわれに残してはくれなかった。しかし大事なのは、このようなリストよりも、読書というものはいつも有益なプロセスであるわけではなく、場合によっては災いをもたらすものでもありうるというこの考えである。」(250ページ)

「このように、ギルバートにとっては、芸術的創造と批評のあいだに区別はなく、またギリシア人の例が示すように、偉大な創造というものはつねにその中に批評を含んでいる。しかも逆もまた真なり。つまり批評も一種の芸術である。(中略)ギルバートは、この「つまらない」という非難にたいして批評家を擁護しつつ、批評家のほうが彼らが批評する作品の作者よりはるかに教養があり、批評のほうが創作より無限に多くの教養を必要とすると断言する。最初の非読礼讃が見られるのは、この批評援護の場面においてにほかならない。」(252-253ページ)

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