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「ぼくは翻訳についてこう考えています 柴田元幸の意見100」

「ぼくは翻訳についてこう考えています 柴田元幸の意見100」(柴田元幸 アルク)

翻訳家の著者による、講演、対談、インタビューなどでの名言を集めた語録集。翻訳家の視点や考え方が短くかつ明確に書かれていて、非常に面白かった。自分の仕事について、これほど面白く軽やかに説明できるのは、うらやましいと思った。

 「翻訳する」という行為を視覚化してみると、ここに壁があってそこに一人しか乗れない踏み台がある。壁の向こうの庭で何か面白いことが起きていて、一人が登って下の子どもたちに向かって壁の向こうで何が起きているかを報告する、そういうイメージなんです。(中略)下にいる子どもたちが(喜べば)それでいと思ってるんです(笑)。(19ページ)

 僕は基本的に翻訳はサービス業だと思っているんで、要は、自分が英語で得た情報を読者に日本語でどれだけ効率よく伝えるかの問題だと思っているので、そこから自分が学びとろうというふうに思ったことはないんですね。
 ただ、そうやって自分が英語で得たものを他人に日本語で伝えるのがなぜ快感なのかは、よくわからないんですけどね。たぶんそれは、単純にやっぱりいい小説を訳すのって、半分そのいい小説を書いていた人間になったみたいな錯覚に陥れるからだと思うんですけどね。(22-23ページ)

 翻訳がはかどっているときは、頭を使って訳しているというより、体から訳が出てくるような感じであり、字を埋めていくというよりは、字がノートに現れるのを眺めている感じである。ペン先から出てきたばかりのインクは、まだ濡れて光っている。その濡れた光を見ているとき、べつに「俺はいま生きているなあ」と頭の中で言語化しているわけではないが、その瞬間を「最も生きていると感じるとき」と呼ぶのが自分にとっては間違いなく一番しっくりくる。(30-31ページ)

 僕は英文にエクスクラメーションマークがあったらほとんど全部再現します。クエスチョンマークも再現するし、段落も絶対変えない。この3点はもうそのままにして何も考えないですね、面倒だし。ただ、割とそれを嫌う人は多い。エクスクラメーションマークってそんなに日本語で使わないと考える人も多いので、これは正解はなし。僕はとにかく変えないです。よほどのことがないと取らないですね。(63ページ)

 ほとんどの人が間違えていたのはこのYou're hurting the babyの意味ね。赤ん坊が「怪我する」とか「傷つけてる」って訳している人が多かったけど、そうじゃなくてhurtは「痛い」あるいは「痛くさせる」っていうこと。もちろん傷つけるって意味にもなりますけど、たとえば注射のときに「痛い?」はDoes it hurt?と言う。「痛い」のいちばん一般的な言い方です。だからこれ、「赤ん坊が痛がってるでしょ」(You're hurting the baby,)「痛がってなんかいないよ」(I'm not hurting the baby,)って言ってるんですね。これはもう単純な誤訳レベルの問題です。(66-67ページ)

 まず、英語における「:」(コロン)と「;」(セミコロン)の基本的な違いは覚えてくださいね。最初の段落の終わりにI turned my gaze aside; I no longer dared look anyone in the faceのセミコロンがありますよね。ここからわかるように、セミコロンというのは、カンマとピリオドの間くらいだと思えばいいですね。ちょっと一呼吸あける感じ。
 それに対してコロンというのは、「すなわち」「具体的には」というはっきりした意味があります。この場合(The vegetable vendor raised her face: she was my grandmother.)顔をあげた結果、具体的にどういうことがわかったかというと、「まさに私の祖母だった」という事実。(74-75ページ)

 翻訳と言うのは自分の哲学や趣味を主張する場じゃないからね。(中略)ほとんどのことは「流行に従う」でいい。長いものに巻かれるのが正しいという場合がすごく多いですね。(78-79ページ)

 neverと「決して」は全然違います。neverを「決して」と訳すことは実はほとんどない。どう訳したらいいか難しいことがけっこうあります。たとえばWe waited and waited a long time, but he never cameというふうに、さんざん待ったのに来なかったという場合に日本語では「決して来なかった」とも「絶対来なかった」とも言わない。neverはnot everだから、その場合は「いつまで経っても」くらいの意味。(83ページ)

 この小説の中で固有名詞、なんでもいいんですけど、車の名前が出てきたとして、この車が高級車なのか安い車なのかで話が変わってくるなと思ったら、それはどっちなのか調べる必要がありますよね。そういうことはもちろん調べます。あるいはたとえば、レストランに入って、このメニューで何ドルだとかあって、その何ドルというのが高いか安いかで、その小説、そのシーンで違いが出てくると思えば、やっぱりその時代の物価を調べたりとか、そういうようなことも必要になるでしょうね。うーん、でも、そういうのって、そんなに大きな部分ではないような気が僕はするんですよね。そりゃ調べますよ、調べるけど、そういうことをコツコツやるのが翻訳道だ(笑)みたいな言い方はしたくない。いちばん大事なところはテキストに書いてなければ嘘だ、というか、テキストから読み込めなければ嘘だろうという気はするんですよね。(92-93ページ)

 だから結局、自分にしっくりくる言葉には限りがあって、それを活用するしかないなというふうに思うことが多いです。だからもちろん、自分に使える言葉を豊かにするために、いわゆる日本語を磨く、いい文章をたくさん読むというのは、原理的には大事だと思うんですけれども、そうやっていわば下心をもって、いわゆる美しい日本語を読むことを自分に強いても、そう上手く自分のなかには染み込まないんじゃないかと思うんです。というか、そう思いたい。あとね、何で僕がそういう磨くとか鍛えるとかいう考え方がいやかというと、僕にとって翻訳は遊びなんですよ。(95ページ)

 調子が乗っているときは、長いセンテンスは文末まで見ずに訳していきますね。5-6行もあるような長いセンテンスを後ろから訳していくと、だいたいろくなことがないので、少なくともブロックごとには、英語と同じ順番にしていきます。後ろのものを前に持ってこないとうまくいかないとわかれば、その時点で書き直せばいいんです。ともかく、長いセンテンスは、終わりまで見る必要はない。気持ちがすでに作品に入り込んでいて、先のトーンもある程度わかっているときは、そんな感じです。英語の1センテンスに日本語の1センテンスが対応するというのではなく、1行1行の「流れ」を再現していくイメージです。(124-125ページ)

 翻訳って、ある程度は、誰でもできるものだと思いますよ。読者の目で見れば、自分の訳が変かどうかはわかるはずじゃないですか。だから、自分の中の読者からの文句に応じる「マメさ」と、原文の感覚がどういう手触りかがわかる「語学力」があれば、誰でもできるんです。
 でも、これはだんだんわかってきたことなのですが、語学力がある人はわりといるんですよね。むしろ、自分の訳文を練っていくマメさというのに、性格の向き・不向きがある気がします。それから、他にもっとやりたいことがない、つまらない人生を送っているというのも大きな要素かもしれませんね(笑)。これがそろえば、誰でもできる。(128-129ページ)

 (翻訳するスピードは)意識して速くあろうともしているんです。ゆっくり訳すとどうしてもセンテンス単位で訳してしまうけれど、読者は文章の流れで読むわけだから、個々のセンテンスが自己完結していてはダメなんです。読むときの感覚、ノリを訳文で再現するためにも速く訳すべきで、速いから雑ということではないですよ。(139ページ)

 翻訳をはじめてわかったんですけど、ほとんどの作家は、訳者の質問にとても親切に丁寧に答えてくれます。彼らは批評家に対してはやっぱり、半分敵、半分味方と思っているようなところがあって、非常に警戒的な態度をとるんですけれども、翻訳者っていうのは、何かね、自分が寝ている間に働いてくれる小人みたいに考えているんじゃないかな(笑)。すごく好意的です、みんな。翻訳をやっていて思いもしなかった嬉しいことは、とにかく作者がみんなすごく友好的であるということですね。(149ページ)

 翻訳とは自分がその小説を読んだときの快感を相手に伝えることだと考えています。だから好きになれない小説を訳すことは一切ありません。好きではない小説には快感がないので、それを訳すというのは僕にとってはあり得ないことなのです。(155ページ)

 (筋の通らないことには)ムカつかないです。小さいころから、世界は筋が通らない場所だと思っていたから。それと、自分は世界に求められていない、という思いもずっとあった。(中略)僕が翻訳を始めたのは35歳のころですが、いまだに僕がやっている仕事で誰かが喜んでくれるというのは、すごく新鮮でうれしいことです。世界に対する期待が低いと、幸福を感じるのもわりとかんたんなのかもしれません。(159ページ)

 今の大学入試のことはあまり把握していないので分かんないけど受験英語って割と世間的には重箱の隅をつつくようなことを聞いているという印象があるじゃないですか。でも、重箱の隅を隅から隅までつっつくのがまさに翻訳の仕事なわけだよね。だからそこでは本当に細かい違いが、例えば、なんで過去形じゃなくてhaveプラス過去分詞を使うか、なんで現在形かとか、なんで語順が普通だったらここにくる言葉がここにくるだとか、まさにその重箱の隅をつつく精神の積み重ねが翻訳では大事なんですよね。(174-175ページ)

 翻訳で一番大事なこと
 答えは毎日ころころ変わるんですけど、やっぱり「語学力」ですね。一番平凡なところに落ち着きましたが。昔は「愛情」だと思ったけど、語学力がなければ「ウソの愛情」ですね。
 語学力というのは、いわゆる英文解釈が正しくできるかどうかだけじゃなくて、トーンが「正しく聞こえるかどうか」ということです。くだけた言い方とか、改まった言い方とか、普通の言い方、普通じゃない言い方を見分けられる力ですね。
 例えば「I tell you.」という表現で、「だからさあ」と訳すのがふさわしい文脈で、「申し上げますが」と訳しちゃダメなわけです。そういうのは英語が「聞こえていない」わけ。
 そういう感覚を身につけるには、できるだけ量を読むしかないですね。あと、1カ月でいいから、英語圏に暮らした方がいいですね。「こういう時にはこう言うのか」という感覚が、少しでも暮らせば違ってくると思うんです。(中略)よく「翻訳は日本語力ですよね」という人がいますが、そう言われると「冗談じゃないよ」と言いたくなる。やはり「語学力」が大事だと思います。(182-183ページ)

 他者からの学びが自分の「身につく」ような素地を作っていくためには、やはり普段から自分でコツコツと本を読み、感じていくことを繰り返していくしかないと思います。そのときに、楽しんで取り組んだほうが自分の身につくことは確かです。しかし一方で、少し背伸びをしてでも難しい批評を読んでみたり、難解な映画を観たり、という経験を積む中で、無理にでも自分を引き上げていこうと努めることが、自分の学びを深めていくためには大切だと思っています。(209ページ)

 そもそもこのthe inadequacy of translationという言い方は、英語圏では、ゲーテの言葉(の英訳)として知っている人もいると思います。1827年7月、カーライルに宛てて書いた手紙にこの表現が出てくるのです。ある英訳によれば、"Whatever may be said of the inadequacy of translation, it remains one of the most essential and most worthy activities in the general traffic of the world" ---「翻訳の不十分さについて何が言われようと、翻訳とはやはり、世界の種々さまざまなやりとりのなかでも、この上なく肝要で、この上なく価値ある営みなのです」。
 ゲーテの言うとおりならいいなと、僕も思います。(235ページ)

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