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「しぶとい十人の本屋」

「しぶとい十人の本屋」(辻山良雄 朝日出版社)

独立系書店「Title」を営む著者による、日本全国の本屋8件のインタビューをまとめた本。本というものに対するすごいこだわりがインタビューの両方から伝わってくる感じで、とても面白かった。

 だが、開店した当初のわたしは、もっと穏やかにニコニコしていたと思う。当時のわたしは、知らない誰かに来てもらえるだけでありがたいと素直に思っていたはずだ。そして目の前の店主がニコニコしている店と、ムッとしている店があったとして、人がどちらの店にまた行きたくなるかは、考えなくても明らかなのだ。

 ぱさぱさに乾いてゆく心を
 ひとのせいにはするな
 みずから水やりを怠っておいて
            茨木のり子「自分の感受性くらい」

 好きではじめた仕事なのだから、その仕事のことを嫌いになりたくはない。(15ページ)

 ここ掛川という街は二宮金次郎さんで有名なんです。二宮金次郎さん、のちの尊徳さんはいいことを言っていて、「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」と。だから道徳と経済、両方のバランスをとらなければ、何も成り立たないということなんですね。(36ページ)

 高木 たとえそれが参考書や問題集であっても、子どもたちを相手に「君はここまでわかっているんだね。じゃあ君にはこの本が向いているかもね」というところまでアドバイスする本屋って、あまりないと思うんだけど...。
 --- それはないでしょうね(笑)。
 高木 それを私は言うと言うのかな。それが信頼につながっていると思います。(43ページ)

 読書はとか、活字離れとか、世間ではとやかく言われているけどとんでもない。いまの子どもたちは活字をたくさん読んでいます。小学校からタブレットを渡され、ものすごい量の活字を読んでいるから、自分たちが子どものころには知らなかったようなことまで知っている。...なんだけど、その読書体験の中でいわゆる「物語」というのが少ないんですよ。絵本やライトノベルは読むんだけれど、日本昔ばなしとかアンデルセンとかグリムとか、そうした古典的な物語は知らないわけです。
 でもそうした物語の中には、人生のすべてが詰まっている。主人公や脇役がいて、苦難にぶつかってそれを乗り越えたり、乗り越えられずダメになってしまったり...。読んでいてびっくりするところもあるんだけれど、いまは親世代も読んでいないですね。
 だから東大の受験会場で事件を起こしてしまった男の子が、そうした物語を子どものころから読んでいたらと思いました。人の人生を疑似体験するものじゃないですか、物語って。それがないまま成長すると、僕の人生はこれしかないと思い込んでしまい、短絡的な行動にもつながってくると思うんです。だから結局「ああ、本屋の僕らがやるべきことってたくさんある。やっぱりもっと本を読んでもらおう」というところにつながっていくんだけれど。(46-47ページ)

 いま、私が思うのは、定年のない仕事をしたいということと、死ぬ前日まで売場に立っていたいということ。それは書店員というよりも、いち本屋としてそう思います。(49ページ)

 以前わたしは、「もう本はたくさん出ているのだから、これ以上出す必要はないのでは?」と思っていました。でもこれだけ多くの人が生きていて、様々なことも起きているのだから、いまでは本は出し続けなければならないと思っています。だから古本屋であっても新刊本を置きたいし、沖縄で出版された本を自分の書店でも売ってみたい。(75ページ)

 わたしは出身が神戸なのですが、関西に帰省すると、同じ人文書でも歴史や古典など、昔からあるような基本図書が力を入れて売られているように感じます。これが東京だと、もっとSNSで話題になっているような書き手の本が前面に出されるんだけど、それとは少し違いますね。
 だから本は、それぞれの土地での売れ筋や売りかたがあってしかるべきだと思います。そうした意味でやはり沖縄は独特だし、<本>というものの根本的な性格が現れている気がします。(78-79ページ)

 本を用意するのは僕やから、できるだけいろいろな本を手に取れるようにしたいと最初のころから思っていました。もちろん二年置いて誰も買わなかった本があるように、空振りすることもたくさんありますけど、あるときを境に、あれ? 三万人ぐらいの小さな町でも、こんな本を買う人いるんやと、様々なかたが来てくれるようになる。でもそうなるには、すごくねばらないかん。時間をかけると、「この品揃えやから、こんな珍しい本もあるかもしれない」など、自分の気持ちがいつからか伝わっていく感触がありました。(98ページ)

 一所懸命生きる...。たとえば感情をいっぱいに動かすなど、そのようなことでしょうか?
 長谷川 そうですね。でも、一所懸命生きるというよりは、自分をちゃんと使いたいんです。自分が道具だとしたら、ちゃんと使って終わりにしたいということをずっと思っている。たぶんそれだけを求めて、いまこうして仕事をしています。本屋だと、いろいろな人が向こうから来てくれて、僕を使ってくれますよね。それが自分のいちばん役に立つかたちというか...。(104ページ)

 そして目の前に立っているお客さんは、情報の宝庫でもある。昨日来たあの人は何の本を買っていったのか。彼女はどんな服装をして、Titleでなければほかにはどんな店に行くのか---雑談に出た店の名前から、そこに通っている人のライフスタイルが、おぼろげながらに浮かび上がってくる...。(116ページ)

 ---自分を守っていくかという。
 堀部 そうそう。その「守っていく」ということが、いまこうした個人店の大きなテーマなんじゃないかなと思っています。消費しようとする力に対して怒ったり、まともに相手をするのではなく、違う次元で自分の店のコミュニティをつくって、それを大事にする。(140ページ)

 ---丁寧に嫌味を言い続ける(笑)。
 堀部 ほかには、いちいちスルーしない。「いや、違いますよ」とか「別にそうじゃない」とか、必ず言う。
 ---それは大事ですね。ほんとうのところを伝えないとその人も気がつかないから。
 堀部 そうそう。それはこれまで京都のコミュニティが維持してきた態度だし、一見さんお断りとかよく言われるのも実質はそういうこと。いまはフレーズだけになってしまっているけど、本来は消費されないとか、どのお客さんを大切にするかというだけの話なんです。(144ページ)

 ---わたしもそうしたサイトの星やレビューは、目に入れないようにしています。やはり嫌な気分になることもありますし、こちらが頼んだわけではない見ず知らずの人たちだから、自分とは別の次元で行われている話のような気がするのですね。
 でも、そうしたサイトを参考にしようとする人たちを含め、もともと自分の店のコアなお客さんというわけではないから、そこに対して何かリアクションをしようという気持ちにはなりません。
 堀部 うん。だから店がああいうサイトを真に受けるのは、すごくまずい気がしますね。(146ページ)

 家族がどういう仕事をしているのか、見たこともないしわからないというのは、戦後にはじまった郊外型の社会ですよね。郊外に住居を構えて、都会に通勤して帰ってくる...。だから波平さんもマスオさんも、仕事の内容ってわからないじゃないですか。
 ---街のどこかに勤めているらしい、みたいな。
 堀部 そうそう。そうした抽象的な仕事が長らく普通とされてきたけど、親が何をしてお金をもらっているのか、それを子どものころから見ておくというのは大事だと思うんですね。(154ページ)

 義隆 ここでやっていて良かったと思うのは、加納くんみたいにうちに通っていたことがきっかけとなって本づくりに興味を持つ人が現れたこと。別の、東京に行って編集者になったというかたも、卒業するときにわざわざ手紙を渡してくれたり...。そうした本との出会いの場として、役割を果たせたようには思っています。(182ページ)

 旅を続け、人に話を訊けば訊くほど、本屋という仕事に共通する正解などどこにもないことを思い知らさせる。どんな仕事もそうなのだろうが、与えられた場所、与えられた条件で、その人なりの花を咲かせるしかないのだ。(192ページ)

 無人店舗に対する違和感とは、そこに人間がいないということに尽きる。そもそも仕事とは、明日のパン代を稼ぐのみならず、その人がそこから人間としての誇りや幸せを得るためのものでもある。人間不在の仕事なんて誰のために存在するのか、頭では理解しても、結局は腑に落ちてこない。
 そして本は、商品であると同時に、読者の一生を決めてしまうかもしれない可能性を秘めた<爆弾>でもある。人を入れずに売上だけ稼ぐといった思想でつくられた場所には、売れているものをさらに売るといった、最大公約数の品揃えがなされるだろうから、手にした瞬間「これはわたしのための本だ」と感じさせるような特別な本との出合いは、あまり期待できなくなるだろう。
 我々は明日のパン代を求めるあまり、自ら進んで人間であることを放棄してはいないだろうか。(229ページ)

 だから売れている<強い本>ばかりに目を向け、そこから取りこぼされる<弱い本>を切り捨てることは、もともと本が持っている性質とは真逆のものだと言える。我々はみな弱い個人の集合体だが、本が人間にとって必要なものであるというのであれば、その個別性を認め、それを一つずつ拾っていくことからはじめるしかない。本をめぐるシステムこそ、<弱さ>を支えるものであってほしい。(232ページ)

 奈良 触って戻しただけでもいいんですけど、面出しにすればさらに効果がある。でも、ただ触っただけでもなぜか売れるんですよね。そこに何か気の動きがあるのでしょうね。
 ---それは、その本を気にしてあげることだと私は理解しています。店内には、しばらく目を留められなかった場所がどうしても出てくると思いますが、その場所を見ていると、空気がよどんでいるなと思うときがあるんですよ。そんなときには、本の並びを入れ替えたりすることで、そのよどみが解消される。そのように感じるときはあります。(265ページ)

 これも面白いなと思ったのは、わかりやすい棚をつくらないということ。奈良さんはその理由について「小さな本屋なので、棚を動的に保たねばならない」とおっしゃっています。
 わかりやすくリファレンスされた書店では、目的のものしか目に入らなくなりますが、すぐにはわからないことで、その人の中に「動的」な心の動き、思わぬ本との出合いが生まれます。もちろん奈良さんにはわざわざわかりにくくしようとする意図はなかったと思いますが、自分の思うようにやっていたら、ほかの店とは違う棚ができあがった...。(267ページ)

 奈良さんも本の底力の一つとして、その人を我に返らせたり、自分の忘れていた記憶と向き合わせるといったことを書かれていました。実はわたしも同じようなことを書いたことがあって、「自分に帰る場所」が本屋であり、本であると思っているのですね。そうした場所として定有堂書店はあったし、「読む会」もあったのかもしれないです。(274ページ)

 でも本や言葉がないと、人はその人自身になれないのではないでしょうか。人は自分では意識しなくても、それまで読んできたものや見てきたものからできていると思います。そうしたその人自身をつくる言葉がどこにあるのかというと、それはすぐには役に立たない面倒な本にあると思うのです。(298ページ)

 しかし店を続けているあいだには(特に状況が厳しくなってくるほど)、「続けるためにしていること」と「ほんとうはそうしたかったこと」との見分けが、自分でもつかなくなってしまうときがある。そこで立ち止まり、自分の基準に立ち返ることができるかどうか。自分に根差していることがその店を「独立」させ、最終的にはそれを長持ちさせるのだ。(312-313ページ)

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