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『ミルと僕』「ちくま800字文学賞」応募作品

 十四歳の頃、飼い猫に顔を引っ掻かれた。幸い大事には至らなかったが、その事が僕を変えてくれた気がする。その猫はミルといった。彼女はまるで自分が女王の様な振る舞いをする猫で、その上、人の心の内の何もかもをみることができる様だった。

 僕が九歳の頃、我が家に汗だくのセールスマンがやって来た。僕には詳しいことはわからなかったが、両親にウォーターサーバーを熱心に勧めていたようだった。両親はすぐに契約をしようとしてハンコを出したが、ミルはセールスマンのことを睨みつけてその契約書を爪で引っ掻いた。その上、セールスマンに襲いかかった。するとセールスマンはミルのことが怖く感じたのか、慌てて逃げ帰ってしまった。その後、セールスマンが勧めてきたウォーターサーバーには欠陥が見つかって世間は大騒ぎになった。後になって気づいたが、おそらくミルはそうなることを見抜いていたのだと思う。

 僕が十四になった頃、僕には大親友がいた。だけどある日喧嘩をしてしまって「大嫌いだ」と言ってしまった。すると、その日の夜、高齢のために弱り始めていたミルが老体に鞭を打って突然僕の顔を引っ掻いた。痛かった。顔にしばらく傷が残った程だった。悲しいことに、親友だと思っていた彼とは仲直りすることができなかった。しばらく僕は気持ちがグラグラした。自分がひどいことを言ってしまったからだと気づいた時、僕は同時にミルが人の良し悪しに敏感だということを理解した。もう、どうにもできない後悔が僕を襲った。

 それから二年程が経って、ミルはさらに弱っていた。あの頃の鋭い目つきは既に無くなっていた。そして、どういう訳か僕の膝下で息を引き取った。なぜなのかは、今でもわからない。ミルの最期は、ただただ安らかそうだった。

 僕は彼女に許されたのだろうか。わからない。その時、僕は優しい人になろうと決意して、生きていこうと思った。たとえ、ミルが許していなくても。

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