「私は」

文化人類学だけでなく、近年さまざまな分野で「参与観察」という言葉を目にする。「参与しながら観察する」という、そんなの同時にできるわけない、矛盾しているだろうとも言われてきた。出来事に巻き込まれながら観察するなんて。

人類学者の調査は「参与観察」が当たり前みたいなところがあるけれど(でも、私からすると参与しているようには見えない研究者もいる)、別の分野の論文で「本研究は参与観察的調査に基づいている」などと宣言しているものもある。

でも、でも・・・。「参与」が全然伝わってこない論文が少なからずある。

ええ、個人の感想ですけど。

なんで今そう思ったかというと、校正している原稿で、自分のことを「私は」としていたら、編集部の方から「『筆者は』では?」という指摘がきたのだ。おいおい、少なくとも私のこの論文は「私は」でないと成立しないのだ。成立しないことは読んでいればわかるだろうに。

若いときは、フォーマットやらに従って「筆者は」と書いていた時期もあった。しかし、「そうじゃないよね」と自覚してからは、論文内で自分のことを「私は」とするようになった。

「『私は、私はって、自意識過剰じゃない?』」と言ってきたヤツもいたが、そこにいるのに「いないフリ」するソイツの方がよっぽど・・・っていうこともある。

そういえば、学生時代につきあっていた人が数学屋で、英語で書いたという修士論文を見せてくれたが、主語がWeであった。「この“We”って誰?というか、どうして”We”なの?」と素朴な疑問として尋ねたら、「数学分野では習慣になっているから」と言われた。「怒られるから悪いことをしない」みたいな返答でがっかりした。ほかにもいろいろがっかりさせられたし、いろいろヤバい人だったので別れた(私は男を見る目が全くない)。

そんなことを思い出してしまった私である。一時期「主語」という概念自体を否定しようとしたが、今はむしろ前面に出している。このあたりもっと考えていきたいところだ。

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