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スライド映写機をトーキー化! 既存技術の融合から生まれたプレゼンテーション機器 〜 『オートスライド AS-2型』

『ソニー技術の秘密』にまつわる話 (19)

1951 (昭和26) 年3月に、東通工 (現ソニー)で開発された『H型』テープレコーダーは、当時の進駐軍政策の一環として進められていた「視聴覚教育」の現場での需要に答え、全国の教育現場へと導入されていました。

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しかし、テープレコーダーは音声のみの情報伝達であり、これからの視聴覚教育やビジネスの現場においては、

「音声と映像の融合が不可欠」

であるとの考えから、既存のスライド映写装置とテープレコーダーを融合し、映像と音声を同時に伝達可能な装置が作られることになります。

1952 (昭和27) 年1月、
先に手掛けていた映画用録音装置『シネコーダー』の試作に目途がついたころ、東通工 (現ソニー)の技術者・木原信敏は、テープレコーダーの普及策の一つとして、ソニー創業者の一人盛田昭夫より依頼された、新たな製品『オートスライド』を完成させます。

「映画の35ミリフィルムのように、画像が連続したストーリーとして見られる方式のスライドプロジェクターで、テープレコーダーと連動して声が出るトーキースライドを作ってくれないか」

というもので、それまでのスライド一枚が一つのホルダーに入っているタイプとは異なるものでした。

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木原は、子供の頃に遊んでいた「おもちゃの幻灯機」に使われていた、スライドのコマ送りの間欠機構を応用すればできると考え、フィルム送りのアダプター部分を自動一コマ送りに改造し、オートスライド用のテープレコーダーには「H型」テープレコーダーをベースに使用することに。

当時、テープはまだ紙の時代。動作原理は誰でも直感的に分かる方式を採用し、紙テープの裏に接点用の銀紙を貼り、銀紙が通過するごとに接点に電流が流れて、スライドがカチャと一枚ずつ動くように設計されました。

つまり、銀紙がセンサーの役目を果たすとともに、会話や説明の切れ目になるという方式だったのです。

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幻燈機 (スライド映写機) のトーキー化はエジソンの時代からの夢を実現させたもので、「テープレコーダー」と「スライド装置」という既存技術の融合は、プロダクトプランニングの先駆的製品とも云え、東通工において「複数の機器を並走させる」という概念は、この時既に出来上がっていたのでした。

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その後『オートスライド』は外観を変更し、学校での教育ツール、企業の宣伝用などとして幅広く使われ、今で言えば、プレゼンテーション・ソフトのような役割を果たします。

朝日新聞社が昭和二七年二月一三日付の新聞に、新しい商品として紹介記事を掲載してくれました。記事の内容は次のようなものでした。
 「いま流行のテープ・レコーダーを幻灯(スライド)に利用して、映画とスライドの間を行く「トーク・スライド」(しゃべるスライド)の試作品ができあがり四月ごろからお目見得する。
 東京通信工業が試作したもので、原理はテープの裏にスズのハクのような導電体を取りつけ説明や会話の切れ目とし、その箇所にくると幻灯機の継電器が作用してコマが自動的に移っていく仕掛け。
 スライドは映画の制作よりも簡単にしかも安くできるうえに″音”を得たので各界で利用面にチエをしぼり、オペラの紹介や外国に紹介する日本製品、国内事情などを音楽や各国語版を吹き込むなどいろいろな企画がすすめられている。一組の値段は一〇万円弱だという。」


ソニー技術の秘密』第3章より

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この『オートスライド』も、先に完成した『シネコーダー』も、基本は単純な機械と電気を組み合わせて作り上げた新商品であり、また、もの真似をせずに独自の考え方で取り組んだ結果、出来上がったモノであり、木原が子供のころに培った技術知識のノウハウが生かされています。

これらが開発された1951 (昭和26) 年から翌1952 (昭和27) 年にかけては、

「単ニ電気、機械等ノ形式的分類ハサケ、其ノ両者ヲ統合セルガ如キ他社ノ追随ヲ絶対許サザル境地ニ独自ナル製品化ヲ行フ」

『東京通信工業株式会社設立趣意書』より

という、井深大が東通工の設立趣意書に思いを込めたモノづくりが、木原の手によって実現した年でもあったのです。

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文:黒川 (FieldArchive)


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