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文献紹介(その3)~一般向けの最新版アイルランド通史はこの一冊

歴史の荒波にもまれてきたアイルランドの歴史はとても複雑です。また、近年、研究が進んだことにより、アイルランドの歴史は大きく変化しています。歴史観も方向転換しました。とりあえず、通史を知っておきたい人に最適な『図説 アイルランドの歴史』を紹介します。


どのような本か

『図説 アイルランドの歴史』は、山本正先生によって2017年に河出書房新社から出されました。アイルランド史が専門の山本先生がかなり気合を入れて書いたと思われる、本格的な内容になっています。

しかし、これをすっかり理解できる人などいるのだろうか、と思われるほど、アイルランドの歴史は複雑です。

戦いにおいて、敵の味方は敵、敵の敵は味方、といった具合で情勢を理解するのに一苦労します。植民地支配やそれへの抵抗運動は、必ずしも暴力によるものではなく、議会や政党の派閥争い、法律、選挙といった手段で行われることもあり、これを理解しながら読み進めるには大変骨が折れます。加えて、味方の中にイギリス人がいたり、アイルランド人同士の抗争もあったり、いったい誰が敵だか分からなくなります。


新しい歴史研究に基づいているのが最大のポイント

アイルランドの歴史は、ブリテン諸島の地域(イングランド、スコットランド、ウエールズ)が、それぞれ双方向に関係しながら、作り上げていったものとして捉えていきます。さらに、ブリテン諸島にとどまらず、古代には地中海、中世にはヨーロッパ、近現代には世界との関係を見ていきます。

そういった広がりの中で歴史的文脈をたどっていくのが、近年、重視される研究の方法だそうです。そのようにして描かれるアイルランド史は、人と文化がさまざまに交雑し、とてもダイナミックです。


イギリスとの関係に歴史が終始していない

20世紀初め頃のアイルランド史は、もっぱらイギリスによる支配とそれに対するアイルランドの抵抗の歴史、といった単純な図式で描かれてきました。

けれども、イギリスからの圧迫がなくなり、平和が訪れると、客観的事実に基づいた歴史が望まれるようになります。また、これまでのような被害者史観では、北との平和のバランスが取れないといった懸念もあって、歴史が見直されてきました。本書もそれに則っています。

悪名高い「刑罰法(1690年代~1720年代)」は、長年に渡るイギリス支配とセットだったわけではなく、ヨーロッパの自由主義を背景として1770年代以降に成立した「カトリック救済法」と、ダニエル・オコンネルを指導者とし、国内のプロテスタントの支持も得られ1829年に成立した「カトリック解放法」によって解消されています。

ジャガイモ飢饉(1945~1952年)は、著しい階級格差と、直近の急激な人口増といった社会背景の中で起こり、イギリス政府は対策を打ったけれども、それ以上に飢餓の規模が大きく功をなさなかった、と事実を追いながら偏りなく歴史として説明されています。


ケルト検証が加えられている

世界の「ケルト」ファンが考えている様々な「ケルト」は、近世の創作である、と1980年代頃に歴史学の世界ではすでに結論が出ているそうです。本書でも、ケルト人は、鉄器を携えて大挙してアイルランドにやって来た証拠はない、としています。

ゲール語については、ケルト人が大勢やってきてアイルランド島がケルト語になったのではなく、何世紀もかけて言語が徐々に取り入れられた、としています。歴史上、言語だけ取り入れられる例は他にも多く見られますよね。そのようなものではないかと示唆しています。

「ケルト文様」「ケルト十字」は通称として用いられていますが、「アイルランド人=ケルト人」「アイルランド文化=ケルト文化」といった安易な汎用は見られません。近年の「ケルト」研究について詳しく知りたい方は、文末にあげた参照論文を読んでみてください。


充実した近世アイルランド史~著者の専門が生きるところ

アイルランドは植民地であった一方、帝国の枠組みの中で(軍人や移民を送り出すといったやむをえない形であっても)大英帝国建設に加担した側でもあった、というなかなか気づくことができない鋭い視点もこの本の著者は投げかけています。

この四半世紀のアイルランドの移り変わりは、教科書には詳しく載っていないので案外知らない個所です。著者の「あとがき」も併せて読めば、現代のアイルランドの姿を捉えることができるでしょう。

北アイルランド紛争と和平プロセスについては、多めのページを割いています。私たちは、闘争やセンセーショナルな事件ばかりを印象にとどめがちですが、多くの人たちの話し合いによる地道な平和への努力には感じ入ります。イギリスのEU離脱に伴って今後、南北の関係がどうなるのか、今につながる話まで最後まで丁寧に書かれています。

写真もたくさんで厚みもあまりない、手に取りやすい本ですのでぜひ、一冊お手元に置かれてはいかがでしょうか。


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トップ画像:著者蔵書 山本正『アイルランドの歴史』


参照論文:

田中 美穂「島のケルト」史学雑誌 2002 年 111 巻 10 号 p. 1646-1668 

常見信代「ケルト研究の過去・現在・これから:近年の考古学、言語学、考古遺伝学の動向から」2020年 北見学園大学人文論集(68)39-102 

山本正「王国」と『植民地」:近世イギリス帝国の中のアイルランドhttps://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/2841/17246_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf


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