生活と尺度

好きな人と暮らす想像をすると幸せだ。
ゆっくり進めていこうねと言いつつ、不動産屋さんの前に貼り出された間取り図をふたりで眺めたりするのは楽しい。

一方で、はたと不安になることがある。
わたしのような役立たずと暮らして彼が苦労しやしないかと。

わたしはそこそこおおらかで悪くない人間だと思う。ただ、家事とかお金のこととか、現実的な問題に滅法弱い。

家の中に魔窟を形成するレベルで片付けられない
貯金はない
ときどき寝込む
休みの日は夕方の3時まで寝てる
掃除機の音が嫌い
料理は好きだけど毎日はしんどいかも
食材の切り方は大きいし
ゴミをゴミ箱に入れずにほっときがち
電気を消し忘れる
たまに水道出しっぱなし
この前はお風呂の栓を閉め忘れたまま湯を注いだ
物なくしてばっかり

韓国語と番組制作のディレクションはできるけれど、日々の暮らしでは能力を発揮しづらい…。

付き合ってすぐのころ、終電を逃した彼が急遽うちに来ることになった。散らかった家を見られるのが怖くて自虐気味に「わたし韓国語と番組作ることしかできないよ。」と言ったら「それだけできたら充分だよ」と言われた。

脱衣所がいちばん散らかっていて見せるのが憚られたけれど、夏場だからシャワーを貸したくて開陳した。うずたかく洗濯物が積み上がっているのを見た彼は、気にするふうでもなくからりと笑って「今度一緒に片付けようか?」と言った。

説教がましくも押し付けがましくもない言い方に心底ホッとしたのを覚えている。

本人はきちんとしているのに、おおらかなひとだ。でも、一緒に暮らすとなったらそうもいかないのではないかと不安になってしまう。洗濯物を積み上げちゃう恋人の家にときどき行くのと、そのひとと毎日生活を送るのはちがうことだ。

そう思ってときどきくよくよしてまう。
自分があまりに役立たずで嫌になる。

不意に電話で彼にその話をしたら、別に役に立たなくたっていいんじゃないのと言われた。役に立つ人も立たない人もいて世の中成り立っているのに、役に立たなければ存在していてはいけないみたいな強迫観念に駆られるのは現代社会の病理だよねとちょっと深刻そうな感じで話すのだった。

わたしの地元で障害者殺傷事件を起こした犯人の考えや、生産性で人間の価値を測る考え方に中指を立てて生きているつもりだったのに、わたしがわたし自身をそういうなにかで測ろうとしていた。

彼が生産性のような尺度から自由でありたい人なのも前から知っているつもりだったのに、彼にとってのわたしをそういう尺度で測ってしまったことが申し訳なく恥ずかしかった。      

わたしは好きな人を役に立つか立たないかという目線で見たことはないのに、自分に対してはそういう眼差しを投げかけてしまう。
仮に彼が、彼自身がわたしにとって有用か否かみたいなことで悩んでいたらすごく悲しい。

それでも生活という現実を共にするなら、もっとしっかりしなくちゃという思いは消えなくて、「一緒に暮らすまでにもっとちゃんとできるようにがんばる!」と言ったら「そんなことしなくていいよ。やろうと思ってできなかったときに辛くなるでしょう。」と言われた。

彼は、わたしがわたしを否定していくのを見ていられないと思ったのかもしれない。

自分自身の生活をよくするためにも、がんばっては失敗してというのをきっと繰り返していく。何も言われなくてもきっとがんばってしまうわたしに、がんばれと言わずにいてくれてありがとう。

わたしのためにがんばることはしても、それでくじけても、彼のために「役に立つ」ようになろうと思わなくていいことはなんとなく救いだ。そのままのわたしと一緒にいようと思ってくれる人がいることと、それが彼であることに果てしない安心を覚えた夜だった。


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