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『街とその不確かな壁』のいいところと、なんか変なところ。

 村上春樹氏の新刊『街とその不確かな壁』(新潮社)を読み終わりまして、いろいろ思うところあったので、雑多に書き並べてみます。
 村上春樹氏が1200枚の書き下ろし小説を出す、ということは、やはり大きな事件だと思います。1979年のデビュー以来、その小説の影響力は国際的なものだし、愛読者も非常に多い。新作も大いに注目され、売れ行きも悪くなさそうです。
 僕も影響を受けました。受けないようにしようと思っても、受けてしまったようです。1979年は僕が16歳になった年です。影響を受けない方が難しかったと思います。受けないようにしようと思ったのも、自然な成り行きだったでしょう。エッセイから翻訳からラジオ番組まで完璧にチェックするようなファンではありませんでしたが、小説はおおむね読んでいるはずです。
 ただ、僕にはアマノジャクなところがあって、既存の小説に納得できないから、自分で書こう! と思う傾向が、今でもあります。小説家になる前はなおのことアマノジャクでした。村上春樹作品も例外ではなく、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に感動した時点では一読者だったけれど、『ねじまき鳥クロニクル』に反撥を感じたことで、「じゃお前ならどう書くんだよ」と自問した結果、小説を書くようになった、ということはあります。もちろんそれだけが動機ではありませんけれど。

 だもんですから今回の『街とその不確かな壁』も、発売後比較的すぐに買って読み始めたのですが、冒頭20ページほど読んだところで、なんかイヤになってしまいました。
 お腹いっぱい、と思ってしまったのです。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終わり」部分に酷似しているからでもありましたし、男が「ぼく」で女が「きみ」で、メンタル面に問題があるような気配を持つ「きみ」が語る「街」の話を、「ぼく」が聞き続ける、という人間関係は、『ノルウェイの森』も思わせます。

 しかしある個人的な理由から、(これはとっとと読んでしまおう)と思うようになりました。というのもーー我ながら単純だな、と思うんですがーー、毎晩、不快な夢ばかり見るようになったのです。知らない女性に叱責されたり、何かにアセらされたり、安眠感ゼロでした。読みさしの小説のせいばかりではなかったでしょうけれど、村上春樹の筆力と無関係とは思いません。読み終わったら悪夢はまったく見なくなりました。

 実際、村上春樹氏の「世界に読者を引き込む力」には凄まじいものがあり、世界中で読まれているのもむべなるかなと思います。この新作はどちらかというと暗いムードが全編に漂っているので、読んでいると部屋の照明も少し落ちたんじゃないかと錯覚するくらいです。
 陶酔ということ、読む者を陶酔させるということ。これは小説を芸術と見なせる最大の要素です。小説に限らずある表現が芸術であるかどうかを判断する基準のひとつとして、「うっとりする」というのは、とても大事だと思います。『街とその不確かな壁』の文章には、読む者をうっとりさせる力がーー少なくとも、うっとりしたい読者を満足させるだけの力があります。陶酔は理不尽な誘導によって立ち現れるもので、これを現出させるのは作者の才能というほかありません。
 理不尽、という言葉を使いましたけれど、この小説には物語的にも理不尽なところがそこここに見られます。これについてはあとで書くつもりですが、理不尽であるという、そのこと自体をこの小説の欠陥とは思いません。
 小説というのは何をどう書いてもいいものだと、森鴎外が言ったとか言わないとかですが、その通りでもあるわけです。書きたいように書けばよく、この小説は作者の思うがままに書かれているように感じられます。自由に、書きたいように書くというのは、決して容易な技ではありません。
 つまりこの小説は、そこにある文章の世界に陶酔し、作者の自由を楽しめる読者にとっては、とてもいい小説であるといえます。ただこれは、裏を返せば、「ファンにとってはおあつらえ向き」ともいえるわけで、ファンじゃない読者には読むのがなかなかきつい作品になってしまっているように思います。
(以下、この作品の「なんかイヤなところ」を、小説の進行に即して書いていきます)

 陶酔は人を選びます。酔える人は酔えるが、酔えない人は醒めてしまう。僕は醒めちゃった方でした。(酔える人もいるな)と理解はできましたけど。
 そして前述のとおりこの小説には理不尽なところがあります。理不尽な話に醒めてしまえば、そこにはツッコミの山が残るばかりです。
 まず登場人物のうち、名前のある人とない人がいるのがきつい。
 主人公は「ぼく」で年を取ったら「私」としか書かれず、主人公に壁のある街の話をする女性は「きみ」とか「少女」とだけ呼ばれます。のちに主人公がちょっかいをだす(なんて下品な表現をしてはいけないのかもしれませんが)喫茶店の女主人も名前はなし。でも主人公が勤める福島県の図書館のオーナーや司書には名前(苗字)がある。イニシャルだけで呼ばれる人も出てきます。
 そこには厳然たる使い分けがあるのだ、とか、そういうのは村上作品のお家芸だから、なんて、どうでもいいことです。村上春樹における固有名の意味、などというのは、ファンが楽しく考察すればいいことで、アマノジャクな読者の僕としては、『街とその不確かな壁』の登場人物に名前があったりなかったりイニシャルだけだったりするのは無理がある、と思うだけです。
 無理があるんですよ。「きみ」は「ぼく」に手紙を書くんですが、その宛名のところさえ「******〔きみの名前〕」(p134)なんて書いてある。
 漱石の『こころ』に、先生の妻が出てきますね。あの妻の名前が出てくるのはたった一か所、ついでの注釈みたいにカッコの中に出てくるだけです。そうであるがために、先生の妻はより一層ミステリアスな存在として読者の印象に残る。『街とその不確かな壁』みたいに、徹底的に名前を塗りつぶしてしまえば、そこに現れるのは、ほとんど官僚的なセンサーシップの印象です。

 この小説が、少年と少女の恋物語として始められながら、ついに恋については語られることがない、というところも、不完全燃焼な読後感でした。

「あなたのものになりたい」ときみは囁くように言う。「何もかもぜんぶ、あなたのものになりたいと思う」
(中略)
「隅から隅まであなたのものになりたい」ときみは続ける。「あなたとひとつになりたい。ほんとうよ」(p92)

 こういうことを口走る女性が皆無とは思いません。また男性である作者、あるいは話者である「ぼく」が、自分の書いているものの中に女性を登場させて、こういうこと言わせること自体にも、文句を言いません。一部分だけを切り取って、作者の女性観についてあげつらうのは、よくないことです。
 もしこれが一部分でしかないとすれば、です。
 ところがこの小説には、この言葉がその後のどこでも、まったく何も作用しない、機能しない、ましてや昇華されたり止揚されたりはしないんですよ。
 一人の人間が自分の理解者に対して、みずから隷属を求めるというのは、よっぽどのことです。その理解者を激しく愛しているとか、離れていくのを恐れているとか、エロティシズムやナルシシズムのような精神作用を暗示しているとか、そういう心が主題となり、物語の展開に関わってしかるべきでしょう。
 そうならない。「きみ」は「ぼく」のものにならない。それどころかある日突然、「きみ」はどっかに行ってしまう。そしてもう二度と小説の中には姿を現しません。出てくるのは「きみ」としか思えない、街の中の図書館の人、だけです。「あなたのものになりたい」という激烈な言葉は、引用した箇所ののちにも現れるというのに(注)、その後の物語の展開の中では雲散霧消してしまいます。いや、雲散霧消よりもっといけない、なんだか「変なこと」につながってしまうのです。
(注)
 わたしはあなたのものです(原文傍点)。もしあなたがそれを望むなら、わたしのすべてをあなたにあげたいと思う。そっくりそのまま。ただ今のところどうしてもそれができないだけです。わかってください。(p133)
 ーーどう判れというのですか。

「変なこと」について書きます。
「ぼく」はその後、サラリーマンになりまして、それから福島県の小さな町の図書館長になります。年齢は四十代です。自称も「私」になります。
 そこでもまあ、いろんなことがあるんですが、そこはすっかり省略しまして、たんたんと仕事をしている「私」の図書館に、一人の少年がやってきます。
 M**くんというその少年は、父親は地元福島の教育関係の実業家、母親は少年を溺愛し、二人の兄は上は弁護士、下は東京の大学で医学を学んでいます。小説に登場するのは45章からです。それまで話の中にはいっさい登場しません(もし登場していたり、暗示されていたとすれば、僕はひどい読み漏れをしていることになります)。つまりM**は、「きみ」とも「私」(もと「ぼく」)とも、縁もゆかりもない人間です。
 そのM**がですね、ある日突然、「きみ」と「ぼく」が語り合っていた「街」に行きたいと言い出すんですよ。
 なんで? どういうこと? M**はどうして「街」のことを知ってるの? なんなのマジで?
 いや、それはいいですこの際。さっき「読み漏れ」という言葉を書いて自分でびびっているんですが、実はそういうことは、小説をよーく読むと書いてあるのかもしれません。僕はここで、終始アホみたいなことを書いているのかもしれません。勝手なことを書いていると思ってご勘弁を願います。
「きみ」が語り「ぼく」が補強しただけの「街」のことを、M**くんはなぜか知悉している。のみならずそこに行きたいと言い出す。それでも足りずに「私」にそこへ連れて行けと言う(p456)。それで「私」は困る。そりゃ困りますよ。
 しかし「私」の困惑は、いわば取り越し苦労に終わります。なぜならM**くんは、勝手に、なぜか、不明の手段によって、「街」に行っちゃうからです。だけどその手段はどうやら「正式」のものではないらしい。M**は「街」で「私」と同じ仕事に就きたいのだが、密入国みたいなものだから就職できない。ではどうするか。M**はなぜか、解決方法を知っている。

「ぼくはあなたと一体になりたいのです。あなたとひとつになれば、ぼくはあなたとして、毎日ここで古い夢を読み続けることができます」(p618)

 で、M**くんと「私」は、一体になる。
 で、数ページあって、「私」は喪失感を覚えて、終わる。
 ええっー!?
 待って待っていろいろ待って。どういうこと? どうなっちゃってんの?
 なんでなるのよ一体に。M**くんて知らない人じゃないの? 一体になって「街」で仕事に就くことが「ぼくのただひとつの願いです」って彼は言うけど、なんでそれを「私」が叶えてあげなきゃいけないのさ。なんで一体になれるの。なんなのこれは。
 いやいや、千歩譲ってそれはいいとしよう。小説も終わっていいとしよう。ただあれはどうなる。「あなたのものになりたい」っていうあれは。「あなたとひとつになりたい」っていう、あれは!?
 小説の最後の場面では、少女である「きみ」と(どうやら)(ほぼ)同一人物の「街」の図書館にいる女性は、「私」とM**の、けっこう近いところにいるわけです。その女性は「きみ」であったことの記憶を持たない(「きみ」であるとしての話)。だから「きみ」が「あなたのものになりたい」「あなたとひとつになりたい」と言ったことも憶えていないんでしょう。でも「私」は憶えているはずだし、だいいち読者が、僕が憶えている。
 最終的に「私」は「きみ」でなく「M**くん」と「ひとつに」なっちゃった、って、それはなんなの。

「私」はM**と一体になることで「街」から出ていき、そのことによって「きみ」である図書館の少女も、多分、「街」から消えていく、んじゃないか、と「私」は考える。「そう考えると、私はひどく切ない気持ちになった。」(p652)。
 そういうけれど、「私」はM**と一体化したことも、「街」から消えていくことも、少女にはひと言も告げません。そもそもこの小説の第三部を通して、「私」は少女に、面と向かって対話をしているようには見えないのです。彼らが語るのは、「街」に現れた少年のことや、耳の痛みに薬草を塗るとか、仕事がはかどるようになった、といった、実際的で機能的なことばかりです。
 最後に「私」と少女の別れの場面はあります。けれどもその場面にさえ、僕は「私」の少女に対する、思いやりを感じることはできませんでした。「私」がさりげなく別れを告げたとき、少女の顔立ちに「普通の人なら見逃してしまうであろうほどの変更」(p651)が現われたそうです。変更。愛する人の表情について、変更があった、なんて書くものでしょうか。書くものかもしれませんが。
 僕はこの小説の最終部分に、「私」の喪失感は読みました。けれども「私」の愛は受け取れませんでした。これでは少女は、「きみ」は、主人公が喪失感を覚えるため、ただそれだけのためにいるということになりはしないか。本当ならば凄まじい決意であるはずの「あなたのものになりたい」という言葉を、主人公は(この小説は)、自分の喪失感のために切り捨てているのではないか、と思います。

 一気に書いてくたびれましたし、食事の時間になりましたので、これで終わります。長々と失礼しました。
 ほかにも、『コレラの時代の愛』を持ってくるなら、そこじゃないでしょ、とか、ツッコミたいところはありますが、細かいことだし、もういいです。
 多分、僕はこの小説を読み間違えています。その自覚はあります。でもこれは、この小説を読み終えた今の、いつわらざる感想です。

藤谷治





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