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言ってみたい言い回し

後輩が、なにかの折に「わたしのためにごめんなさい」と言った。

主旨が違うけれど、頭の中で「けんかをやめて~ふたりをとめて~わたしのために~争わないで~」と河合奈保子さんが歌う。

彼女は本当に感じのいいお嬢さんで、甘えと怠惰の権化のような頼みでも、いやな顔ひとつせず引き受ける。

この発言と一緒に、春風が吹いたような気がした。
漫画やアニメなら、背景に淡いピンクの花びらが舞っている。

「それはこれをこうしたら簡単ですよ」と親切を装い、暗に「それは自分でやってください」と峰打ちするわたしとは大違いだ。
漫画やアニメなら、背景に静電気のような火花が散っている。

「わたしのために」なんて、一歩間違えれば勘違いに聞こえそうな言い回しだけれど、やさしい彼女の言葉に邪念などなかった。

わたしもそんな風に言ってみたい。

でも、間違いなくさざなみのような失笑とともに「いやあんたのためじゃないわー」と返され、穴があったら入りたくなりそうだ。

言ってみたい言い回しと、言ってみて気持ちがいい言い回しは違うのだ。

百貨店で販売員をしていたとき、開店後1分間は背筋をピンと伸ばし、静待機でお客様が通られるたびにこうお声掛けしていた。

「おはようございます、いらっしゃいませ」

自発的なものではなく、百貨店には大抵あるルール。

販売職は気が重いことも多かったが、これはなんだか快感だった。

何てことのない普通のあいさつなのだが、自分の城へ客人を招き入れているかのような錯覚に陥る。心の中では「みなのもの、ようこそいらっしゃった。今日は楽しんでいってくれたまえ」くらいの感じで言っていた。

城主になったことはないし、百貨店の地階だし、自分も雇われの身なのに。

以前の上司は、気づいたら席にいないタイプの人だった。
ただ、ペンやスマホ、手帳など、持ち物を行く先々に点々と残していくので、それらをたどれば大体見つかった。心の中でヘンゼルと呼んでいた。

ある日、例によってまたお尋ね者になっていた。いつからいなかったのかすら分からない。しかし、棚の上に無造作に置かれたジャンパーがほんのり温かかったので、

「あ、温かいですよ。まだ近くにいるんじゃないですか」

とどこかで聞いたような言い回しを口走っていた。すぐに「刑事かきみは」とツッコミが入った。

案の定、簡単な来客だったらしく、すぐにひょっこり戻ってきた。



それを言いたいがために、自分の行動を律している場合もある。

「もうできてます」

タイミングよく言えると、レモンスカッシュくらいスカッとする。
トーン次第では相手を少々イラッとさせてしまうので気をつけたい。

人に指示や催促をされた途端にやる気をなくして減速するので、このセリフを言いたいという気持ちは、仕事のうえでアクセルになっている。実際に言えることはなかなか少ないのだが。

「私、失敗しないので」くらい言えたら気分爽快だと思うけれど、これは自信がなくてとても言えないし、その日から絶対「エックス」とか「ダイモン」とか呼ばれるだろうから、やめておこう。

そして「宵越しの銭は持たない」と言えるくらい羽振りがよくなれたらいいが、その前に宵越しの仕事を持たないようにしたいものだ。

ところで、10月31日はハロウィーンである。

ハロウィーンの決めゼリフ「Trick or treat」も語感がよくて口にしたい言い回しだが、菓子業界の人間が口にすると、だいぶ支障がある。
年次の浅いアルバイトさんが、弾けるような笑顔でこのセリフを店頭で叫んでいて、慌てて制したのを思い出す。

「Trick or treat」=「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ」

「かぼちゃはランタンよりプリンより、天ぷらにして塩で食べたい」のだが、この時期、社内では口が裂けても言わない。

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