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僕は必死で読み続けた。

圧倒的な才能を身近に感じたことはありますか。
僕にはなにかピンと来る経験があったような気がするのですが、イマイチ思い出せません。
あるいは思い出させたくない何かが僕の中にあるのかも知れません。

藤本タツキ先生、チェンソーマンという作品の名を耳にした人は多いはず。

"ルックバック"を読むと心の中の、あるいは前頭葉のどこかなのかも知れないけれども身体のどこかがモヤモヤします。なにか僕にとって思い出すべき出来事があったように感じるからなんです。
だからルックバックという作品が、喉に魚の小骨が痞えるような気分にさせるのかも知れません。そして、この気持ち悪さはこの漫画を読んでいる時だけではありません。
映画を観ている時にも起こります。たとえば『ニュー・シネマ・パラダイス』を観ていて、ふと気がつくと、自分の知らない登場人物やストーリー展開なのに、「ああ、ここはこういうことなんだ」とか「ここでこうなるんだね」というようなことが頭に浮かんでくるのです。

でも、ルックバックの藤野ちゃんにはその予測が適応しないんです。その理由はSFのエッセンスだと思うんです、廊下に積まれたとてつもない数のスケッチブックをみて絶望し、開ける気が起きなかった部屋の扉に、一枚の原稿用紙が吸い込まれるシーンとか。
あれなんかはひとつの映画が取れると思うんです。それくらい豊かで面白いです。

京本ちゃんが藤野ちゃんのバックナンバーについて、頬を真っ赤な林檎みたいにこれでもかというくらい赤らめながら、手を握って熱心に語って
それを聞いた藤野ちゃんが
雨の降り頻る帰り道の田んぼ道を、京本ちゃんと同じように頬を真っ赤にして踊るシーン、
あれからはモノを作るクリエイターならではの感情を、ひとりの読者に、あるいはクリエイター側の方に響くシーンだったんじゃないかなぁと思います。

とにかく気がついてみたら僕は、床の上に転がっていて、作品を読み終えた頃には、彼女らと同じように頬をまっかにしていました。

それから僕は、急に、泣き出してしまったんです。とめようとしても止まらないんです。家族に聞こえない様にはしたけれど、でも泣いたことは事実なんです。
泣きながらも僕は、まだ部屋の床に転がっていました。このまま息が詰まって死ぬかどうかするんじゃないかと思ったりしました。いやあ、かわいそうに、家で飼ってる猫をすっかり怯えさせてしまった。
でも、どういうわけか読む前よりも読んだ後の方がずっとすっきりしましたね。ひとつにはもうこれ以上涙が出ないという意味でのすっきりかもしれません。ある意味じゃ、その始めに話したモヤモヤの存在に気がついて、心の整理を始める準備ができたからかもしれません。
でも同時に孤独を感じました。

ウィルヘルム・シュテーケルという精神分析の学者はこう言ってます。
『未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある』
僕は漫画の中のある人物の行為に困惑し、驚愕し、はげしい嫌悪され感じたのはぼくが最初ではないだろうと思った。

Twitterを開いて「ルックバック 感想」
と検索し僕と同じ様な感想をたくさん目にしました。

その時点で僕は決して孤独じゃないと感動しましたし、鼓舞されたように感じました。
今の僕とちょうど同じように、道徳的な、また精神的な悩みに苦しんだ人間はいっぱいいたんだから。幸いなことに、その中の何人かが、自分の悩みの記録を残してくれたことで僕はちょっと、救われた様に感じたわけです。

藤野ちゃんは、高貴な死を選ぼうとした未成熟な人間かもしれないけれど、偏った理想のために、誰かを排除して、自分は生きてやろうと考えるクソ野郎よりは、数億倍マシだと思いました。

いい作品をありがとうございました。



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