異端者

高校1年生のころ、人と違う自分が嫌いだった。

同調圧力を自分にかけて、自分の「違う」ところを殺してきた。

強い力で押せば、向こうも強い力で押し返してくる。

殺したものは後から強くなって戻ってきた。


高校2年生になってもまだ人と違う自分が嫌いだった。

さらに強い力で押し込んだ。

押せば押すほど返ってくる力は強くなるものだ。

気持ちと言動が食い違うことが多くなった。

周りに合わせることが嫌じゃなくなってきて、普通になることで安心できた。

さらにさらに強い力で押した。

力は押し返してこなくなった。

やっとみんなと同じになれた。

個性を殺して得たものは大きかった。

人権を実感し、社会性を得たように感じ、普通になれたことで安堵した。


大学1年生になって、ぼくは人と違う自分になりたいと思っていた。


大学2年生になってイギリスに行った。

いろんな人に会った。
黒人、移民、トランスジェンダーの人、色盲の人、両親を幼くして亡くした人、家出して10年家族に会ってない人、事故で左腕を失った人。いろいろだ。

彼らは彼らが持つものをビハインドと感じてはおらず、口をそろえて「神が与えてくださったもの」と言う。

初めは理解ができなかった。言葉が頭の中をぐるぐるした。気になって仕方なかった。
ああいう風になりたい。
自分は自分だ、と自信をもっていたい。


強い力で押したそれは時間をかけて、そしてさらに強くなって戻ってくる。

両手を広げて受け止めた。受け止めるしかなかった。
もっと強く押すほどの力がなかった。

大きく息を吸い込んで、また大きく吐いた。

楽になれた。なりたい自分になれた。自然体でいられた。
人に言われなくったって、自分で自分を認められた。

自分のような人が周りにいないことが誇らしかった。

もちろん、同じ境遇の人と話してみたいし、絶対に仲良くなれると分かっている。
それでも、一人であるという優越感に浸っていたかった。


優越感というのは賞味期限が短い。
大学3年生になってからというもの、また普通に戻っていた。
むしろ前よりも気持ちのざわつきは増していた。

この年はさらにたくさんの人に会った。
たくさん友達ができた。たくさんの人にお世話になった。

自分を隠すことに罪悪感があった。でも自分が自分であると言えば人はそれを嫌うと分かっていた。

見た目ではわからないことだし、ばれる心配もない。
言わなくても保てていた均衡が罪悪感で崩された。
思っていたよりもそれが重かったんだろうか、人に会いたくなくなった。

去年の11月のこと。友達がご飯に誘ってくれたけど行きたくなかった。
一番仲良くしている友達だから、本当はいきたかった。
でも今の精神状態だと、悩みを口に出して楽になりたがるに違いないし、行ってしまえば嫌われるし、板挟みになってた。

思えば苦しんでいた。「病む」とはこういうことだと分かった。自分とは無縁だと思っていたから新鮮で、だけど強い嫌悪感があった。

また友達が連絡をくれた。悩みを話せよと言ってくれた。
言いたくないというと、何を悩んでるかわかってる、気にしない。と言ってくれた。

本当のことを言えた。
笑ってくれた。
人と違うって素晴らしいぞと言ってくれた。
誇らなきゃいけないと言われた。

知ってる人に言うのは気が引ける。みんなが友達みたいに認めてくれるわけじゃないし、認められたいわけじゃない。
ただ、嫌われたくない。
色眼鏡で見られたくない。
遠ざけられたくない。
気を使われたくない。

だから、知ってる人がいないnoteで書こうと思った。

またそれが強くなっているから。
自分が自分であると言いたがっているから。


僕はポリセクシュアルらしい。
パンセクシュアルに近いところにいる。

ポリセクシュアルは、複数のセクシュアルを好きになる人のこと。
性別も自認した性も女性の人、性別は女性で自認した性が男性の人、男性で自認した性が女性の人。彼らを好きになれるみたい。

知るまでに時間はかかったし、どうやって気付いたかは覚えてない。

ぼくは誇りに思っている。個性だと思っている。
恋愛の対象が35億人よりもっと多くいるんだ。


どうも理解されにくいことだろう。
セクシャルマイノリティに対しての世の中の目はまだ変わらない。


性自認した人が声を上げて理解を求めれば、それをうるさいと押し付ける大人がいる。
そんな大人たちに教えてあげたい。
強い力で押し付ければ、同じ強い力で押し返されるんだ。

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