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映画「ファイトクラブ」感想文その1

面白かった。非現実的なストーリーなのだが全編を通して現実にいる僕とリンクする、まさに共感できる映画であった。

厭世観や虚無感といった先進国特有のむなしさの原因を「生きてる実感の無さ」として、その「生きてる実感」なるものを「暴力」という現代社会では禁忌とされるもので表現されている。なので、単なる暴力映画ではなく、抽象的な「生きること」の像が具体的な「暴力」として描かれてる気がする。そういう意味で、これは暴力映画じゃなく人間の内面にある「生」に対する葛藤を描いたヒューマンドラマなのだ。

確かに「生きてる実感」を感じることはほとんどない。そもそも、「生きてる実感」なるものを考える時というのはそれを感じず酷い虚しさを感じている時だ。何故なら生きてる実感を感じてる人間は、それを考える必要がないからだ。

この映画の公開日は1999年で、原作は1996年発表の同名の小説らしい。不況やら何やらでこういうテーマはその時代ぐらいからあったのか。それはわからないが、特に現代はそれを感じやすい時代にも思える。

SNSやらスマホやらの普及によりあらゆる情報が手軽に手に入り、見ることができるようになった。自分とは全く違う生き方をし、楽しそうに生きてる人間のライフスタイルを覗き見することができる。そしてテレビのCMですら少し前に「好きなことで生きる」というYoutuberのCM(広告の広告?)といったものを流し、その標語が流行りもした。そういった有象無象の情報に勝手に啓蒙され、「生き方」なるものが何者かにより再定義される。だが、実際にはそう生きていけるのは一部の人間だけであり、おおよその人間はそう生きるための実力やら精神力やら行動力がない。ないのに啓蒙だけはされる。悩みのタネだ。

「死」なるものが場所・時代問わず生物学的な死と同等のものとして絶対的な位置にあるのにも関わらず、「生」というものは生物学的な生と同等じゃない感覚が何故かある。だから「再」定義ができる。この妙なアンバランスが、前述のむなしさに繋がる。死んでは確実にないけれど「生き方の定義」通りには生きていない。この宙ぶらりんの状態で存在している人間は生まれながらのゾンビに近い。この映画に出てくる主人公の「ぼく」はまさにゾンビだ。

必死に「生き方の定義」通りの「生き方」をしようとするが、近づいても近づいても不眠症が一向に改善する様子はなく、序盤のこの「ぼく」は悲惨の一言に尽きる。考えてみれば、大手の自動車会社に勤め、いい部屋に住み、いい家具を取り揃えられるだけ幸せそうな部類のように感じるが、彼からそのような幸せな感じはしない。生気やら感情やら人間らしさを感じない。生きてはいるが「生きて」なさそうな感じ。

医師の勧めというより医師の冗談で「ぼく」は睾丸ガン患者の集いに行く。睾丸を失った男たちの悲痛な告白を聞き、感極まり号泣する。かなり不謹慎だし、後に出てくる「ファイトクラブ」の会員になるよりも悪趣味だと僕は思ったが、「ぼく」はそれで「生きてる実感」を得る。だがそれは相対的な物であり脆い。ある日、睾丸ガンの患者の会にマーラという女性が出席したことによりその「生きてる実感」というものは崩れ去る。

やはり、まとまらない。文章能力というより構成能力が足りていない。続きはまた後日・・・と言いたいところだが、まとまるのにかなり時間がかかりそうな気がするし、無理かもしれない・・・。是非見てください、「ファイトクラブ」。Amazon primeで無料で見られます。

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