たかが雑談、されど雑談。
最近思ったこと、雑談って案外難しい。
でも雑談ができるのは相手を消費していないことの表れなのではないかとも思う。
私は人から新しい考え方や物の見方、知識や情報を聞くのが好きだ。
その人自身のことでもいいし、その人の知っている知識でもなんでも、
「相手を知りたい」という気持ちが非常に強い。
だからこそ先輩や年上の人、同年齢でも自分自身の考えの軸をしっかりと持っている人と話をするのが好きだ。
しかし時々思う、「これインタビューだな。」
相手のことを知りたい、相手の知識の引き出しを開けたいと思えば思うほど
問いがぽんぽん思い浮かび、相手に問いの投げかけばかりしてしまう。
もちろん「このははどう思う?」と質問を投げかけられたら答えるし、
相槌も打っているけど。
あるポッドキャストで、ゲストの方とインタビュアーの方がお話をしている回を聴いているとき、どこかその感覚に覚えがあるなあと感じていた理由がやっとわかった。
私はごはんを食べながら、またはお茶をしながら知り合いにインタビューをしていたのだ。
そこで再び思った。
親しい友人や知人との話はインタビューでいいのだろうか。
雑談じゃないのか。
相手に対しなにか新しい知見を求めようとするということは、会話が何かしらの目的を持った意図的な働きかけになってしまう。
相手の言動に対していきなりGoogle検索し始めたり、メモをとるなどもっての他である。
これじゃあ雑談じゃない。
それに、相手を消費している気もする。
誰かと会うということは、その相手との時間を共有したいということだ。
相手と「一緒にいる」その時の流れや肌感、楽しいという感覚が大切なのではないのか。
私は相手を目的にしているのではなくて、無意識に相手の持っている情報や知識、相手の引き出しを目的としていたのではないか。
インタビューをしている私は相手と話しているようで、実際は相手から知識を得て後の自分の糧にしたいという無意識な欲望を持っていたのだ。
つまり、相手を見ているようで実際には未来の自分を見ていた。
なんたる相手への侮辱、、。
これまでそのように関わってしまった人には本当に頭を下げても下げきれない
(こんな日本語あるのだろうか、、ニュアンスよ、伝わってくれ。)
その点雑談はどうだろう。
冒頭の引用によると、はっきりしたまとまりがなく、なんの目的もなく交わされる話らしい。
雑談を楽しむ
これこそ、相手を相手として認識し、相手の存在を尊重し共にいる時や場を楽しむことの境地で行われる会話なのではないか。
相手になにも求めない、でも話しているあなたがいる。
あなたと共にこの場を共有していることが幸せなのであり、話はその一つの手段。あくまで付属品なのである。
これこそ、私が本当にしたかった相手との時間や場の共有の仕方である。
「なにを話したか全然覚えてないけど、なんかとっても楽しかったね」
これこそ至上の言葉。
インタビューはきっと、雑談を楽しむことができなくても成り立つだろう。
しかし雑談を楽しむことはインタビューができる関係性の人であったとしても成り立たない気がする。
面白いや楽しいと感じられるビビっとポイントの一致が必要であり、
なにより相手に何かを求めない、相手の存在の絶対的な肯定の姿勢が必要だからである。
だからこそインタビューもできて雑談も楽しめる、そんな関係性の友達や知人を持つことができればこれ以上の幸せはない。
このことに気づいてしまったからには自分のなかでインタビューと雑談のモード切り替えができるようにならねば。
そして本来ならばそれを相手に伝えることが礼儀というものだけれど、いきなり
「今インタビューモードでいきます。」とか
「今は雑談モードでいきます。」とか
言われても相手がびっくりしてしまうので自分の中だけにとどめておこう。
雑談モードとインタビューモードのように白黒はっきりさせるようなカテゴライズはあまり良くないのかもしれない。
自分の中の感性に無理やりラベルを貼ってしまったような気がする。
しかしどうしてもインタビューモードになった会話の後に相手を消費してしまった感が拭えず、申し訳なさが残り自分を責めてしまうことが多かったので
自己防衛システムとしてモード切り替え機能を備えておこうと思う。
そして切り替えながら、自分のなかでその塩梅が上手に調節できるようになり自然体で行えるようになるのが理想である。
雑談の奥も深そうだ。
追記
ちなみに私は雑談がたくさん盛り込まれているドラマが大好きである。
正確にいうと自分が「好きだなあ」と感じるドラマの共通点を考えてみたところ、
雑談が豊富な点が挙がった。
坂本裕二さんの描くドラマは特に雑談オンパレードである。
でも、雑談とインタビューモードが美しく自然に切り替わっているのである。
恋愛を描くにしても、相手との会話が自然であなたとわたしの認識やあたりまえ感のずれを雑談の中で丁寧に擦り合わせて行っている。
意図的に惚れさせようとするのではなく、かっこいい決まり文句や演出をするわけでもなくただの日常の雑談を描いているだけとも見ることができる。
しかしそこにこそ人と人を結ぶ大切ななにかがあるんだろうなあとかぼやぼや考えるとやはり雑談の奥は深いにたどり着く。
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