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納豆炒飯と宇宙の神秘

今日、お昼に初めて納豆炒飯を作った。

冷蔵庫を開けたら玉ねぎが4分の1と、オクラ、賞味期限が今日までの納豆が
1パックと卵が一個あった。

だいたい1週間に1度まとめて安売りされている食材を買って1週間で食べ切る。
今日はその最終日なので冷蔵庫の中がスッカスカなのだ。

冷蔵庫の前でなにを作ろうか考える。

そうだ、納豆炒飯にしよう。
納豆を炒めたことはまだなかったので、なんとなく楽しみ。

玉ねぎをみじん切りして、オクラも切って炒める。
玉ねぎがしんなりしてきて、少し焼き色がついた頃に納豆を投入。
私はこの納豆のなんともいえない臭みが好きなタイプ。
そこからごはんを投入。

一昨日、炊飯器が壊れた。
彼の寿命は非常に短くなんと2ヶ月、、、。
一人暮らしで自炊を始めてから1年間は炊飯器を持っていなかったのでお鍋で炊くのがデフォルトだった私にとっては炊飯器はあると便利なものだが、なくても別に困るというものではない。
よって今日は彼がいなかった今日は一年前を思い出しお鍋でごはんを炊いた。

一年前バイト先の先輩にお鍋でごはんを炊いているのだが、絶妙な炊き加減が分からず悩んでいると相談した。
ちょうどその先輩の家にも炊飯器は存在せずお鍋で炊く派、かつ先輩のお鍋歴は非常に長かったので研究に研究を重ねた先輩にとってのベストな時間配分、水分量を教えてくれた。

そのレシピを見ながら炊いた。
毎回思うのだが、同じレシピで、同じ鍋で炊いているのに全く炊け具合が違う。
ある時はおかゆのようになるし、ある時はおこげができる。
そんな今日はぱらぱらごはんが炊き上がっていた。
お鍋にもお米にも気分があるのかもしれない。

なので今日はぱらぱらごはん。
このごはん、普通に食べるには少しパラパラすぎるけれど、
炒飯にするのは最適だった。

ぱらぱらごはんを投入し、卵を溶いて入れる。
味はいつもシンプル塩胡椒、と少し醤油。
レシピ。確かに調べるには調べるけれど、見ながらつくることができない私は
どんな調味料を使っているかだけ参考にしてあとは自分のセンスで作ってしまう。

そしていつも薄味になる。
減塩を気にしている方にはもってこいなのだけど。
人に自分の料理を振る舞うと調味料を死ぬほど足される。
だから自分のためにはつくるけど、人に作るのは苦手だ。

納豆炒飯のできあがり。
昨日の晩御飯の残りの味噌汁を温めた。

納豆炒飯、なかなか美味しい。
料理の新たなレパートリーが増えた。

炒飯をお腹いっぱい食べたあとふと思った。

私は幼い時お昼に母が作る炒飯が嫌いだった。
ご飯の満腹感が嫌だったし、なにより母の炒飯はべちょべちょしていると
よく文句を言ったものだ。
しかし今自分でお昼に炒飯を作っているのだから自分にどんな変化が起こるのかは
本当にわからない。

先日、私が信頼してやまない人生のモデルのような人に会ってお茶をした。
その人とは大学2年の夏にお会いし、かれこれ一年ほど1ヶ月に1回オンラインでお話しをさせていただいている。
旅をしている時も、遠い日本からずっと私を見守っていてくれた。

初めて会った時、私の第一の悩みは摂食障害でその相談もかなりしていた。
1年ぶりに対面でお会いして就活やこれからのことをお話しをしていたらふと

「最近ごはんたべられてる?」
と聞かれた。

「はい。自炊を初めて試行錯誤しながら食べてますよ〜
 お肉やお魚、油物は自分で作るのには抵抗があるんですが、
 野菜はもりもり食べてます!。」

「それはとっても安心!エネルギー感じるし、肌の艶めっちゃいいもんね!
 体重はまだ毎日測っているの?」

「それが体重計、一人暮らしの家にもってくるのやめたんです。
 なのでもう測っていませんし自分が何キロかもわかりません笑 
 そのほうがずっと楽です。お腹いっぱい食べれるし」

「ほんと、それが一番嬉しい。
 もうね仕事とか働くとかそんなことどーでもいい!
 このはが元気で、嬉しそうにごはんたべてる、それだけで十分!」

そういえば、忘れていたけれど
私は一年前毎日のように体重を測り0.1キロの体重増加に怯えて過ごしていた。
1号のごはんを小さく小さくラップにわけて冷凍し1週間かけて食べていた。
食べ物を買う時はカロリー表示を見て、なるべく数値の低いものを買っていた。
朝ごはんは抜いて、お昼まで我慢していたし
満腹になるもの怖かった。

それが今はどうだろう。
毎朝起きたら一番初めに1号分の白米を洗い、炊く。
それは1日で食べ切ってしまう。
体重計はもうこの家には存在しないので、私は自分の体重を知らない。
カロリー表示を見ることは無くなった。
最近はどちらかというと添加物の表示をみて、自然に近いもの、
原材料にみたことのないカタカナ表記のものがいろいろ入っていたら
買わなくなった。
満腹になると幸せになる。
食べ物を味わう時はそれに集中し体全体でその味を楽しみたいので自然と
ながら食べをすることは無くなった。

一年前の私からは到底考えられなかった。
自分がごはんをおいしく食べられるなんて
不可能なことだと思っていた。

人間の心は未知の可能性に満ち満ちている。
(あ、寒くならないでください笑)

ネパールにいた時にアーユルヴェーダというインドの古来医療を受けた。
この治療のメインの目的は体の中の毒素を全て排出すること。
治療の一環で1Lの水を浣腸でお腹の中にいれ、その状態で1時間耐え続けるというものがあった。
1週間毎日お尻の穴からお腹から水を入れられた。
初めは500mlも入らなかった。
すぐにお腹が痛くなって、1Lも入るなんて考えられないと思っていた。
それが最終日には1Lしっかり入り、かつ1時間30分お腹に水を入れた状態だった。
その状態で歩くことさえできた。

そのとき、私は人間の体の可能性、神秘を感じた。
できないと思っていたこと、それ自体は思い込みであり
体はできうる力をもっているのだと。
心はそれを受け入れられるのだと。

大学一年生のときの初めての授業で先生が30人ほどいる学生の前で
こう質問した。
「あなたは自分のことが好きですか?
 好きな人は手をあげてください」

クラスの半数以上が手を上げた。

その時の衝撃は今も忘れられない。
私は自分のことを好きだなんて思ったことはなかったし、むしろ大嫌いだった。
好きになれるなんて到底思えなかった。

しかし今同じ質問をされたら、私は真っ先に手を挙げるだろう。
むしろ自分のころを嫌いだということすら躊躇われるしその思考回路を
自分のなかに作りたくないくらい。

「自分が嫌い、お前はだめだ」

その言葉を自分が自分に唱えると一気に惨めに感じる。
心が泣いていることがわかる。

一年前には到底自分を好きになれると思えなかったのに。

無理。
不可能だ。
私にはできない。

心は弱くすぐに自分の可能性を否定する。

しかし体は強く宇宙並みに広い可能性と神秘を秘めている。

心は弱い。しかしその弱さは圧倒的な強さでもある。
心がその可能性に気づき、変わろうと心みたとき体はそれについてくる。
おそらく心が変わろうとしなければ体は可能性を秘め続けたままになってしまうだろう。

私は自分のことを好きになろうとして頑張って好きになったわけではないし
体重計も、今近くにあったらきっと乗ってしまうだろう。

ではなぜこのように劇的に変化したのかと言われると
きっとその方が楽しく生きられることに気づいたからだと思う。

もっと頑張らず、辛くならず、自分がご機嫌にいられる
ただそれを求めた結果がこのような変化をもたらしたのだろう。

今を生きる私たちはもっと楽しんでいい。
楽しいと思える、わくわくする方へ進んでいい。

それは甘えではない。
それは怠惰ではない。
それは罪ではない。

楽しいと思える先に辛さもあるだろうし、
ワクワクする先にだってなにか越えねばならぬ、努力せねば
越えられぬ何かがきっとある。

だから始まりは自分の生きやすい方へ、
自分のワクワクが向く方へ進んでいっていい。
その楽しさやわくわくが宇宙や世界の求めるものであったならば
きっと自分よりももっと大きな力がそれを助けてくれるだろう。

自分の心も体もその可能性を最大限に発揮して自分を応援してくれるだろう。
この広い宇宙もその神秘で私たちを包み込んでくれるだろう。

1杯の納豆炒飯が私に宇宙の神秘を、そして生きるヒントを語ってくれた。







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