紀行note 兵庫県明石市 ほのぼのと明石の浦の 人麿山月照寺 柿本神社
おはようございます。
須磨とくれば次は明石と、紫式部がいったのか松尾芭蕉が書いたのか存じませんが、須磨と明石のバリューセットいうことで、須磨散策の翌日は明石散策。
これは九月三十日のことです。
まずは山陽電車の人丸前駅からスタートです。
人丸前駅のホームには東経135度の表示があります。散策の第一歩は、日本標準時子午線に立つ。
人丸前駅から北へ歩くと明石市立天文科学館があり、科学館裏手の石段を登ると、柿本神社があり、その隣に人麿山月照寺が建つ。
まずは柿本神社へ参りましょう。
御祭神は柿本人麻呂公。
境内にある由緒書によれば、元和六年(1620)に明石城主であった小笠原忠政が、人麻呂公を歌聖として崇敬されこの地に祀られたとある。
『播磨名所巡覧図会』(文化元 1803年 刊)によれば、
「初め勧請の年月は詳ならず 当社をここに移すは元和の頃 明石の城築るる時なり 旧は今の城内の地にありて … 中略 … 尚 今 城中にも小祠あり」と記す。
神社の御由緒は間違っていないと思いますが、何かを伏せて書こうとするから説明が足りない気がします。
柿本人麻呂さんは、学生の頃、梅原猛の『水底の歌』を読んでからなんかちょっと気になる存在でした。この書で梅原氏は人麿は刑死であるという説を展開されていた。
梅原さんの本も今読めばもう少し理解できるかもしれない。
さて、参拝して振り返るとかすかに海が見える。
門の向こうに海が見える。その先にうっすらと見えるのは淡路島です。思いのほか淡路島は近い。建物を消し去る妄想の果てに、かつてののどかな明石の浦がこの高台から見えてきましょう。
ほのぼのとあかしの浦の朝霧に
島がくれゆく船をしぞ思ふ
古今集に載るこの歌は、よみ人知らずとされていますが、「ある人のいわく、柿本人麿が歌なり」とも記されており、古来人麻呂の歌として親しまれてきている。
朝霧にほのぼのとした旅情も感じますが、当時の旅を思えば寂しく哀しいものかもしれません。人麿の時代は、旅といっても物見遊山ではないと思うんで、こんど人麿公に逢ったら聞いてみます。
天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば
明石の門より大和島見ゆ
これは長旅から帰ってきたときの歌のようです。明石海峡までくれば大阪、生駒の山々が見えるのか、その先にある大和までもうすぐである。やっとこさっとこ帰って来たぜという万感の思いなのでしょう。
柿本神社の境内に歌碑があったようですが、写真を撮り忘れました。
柿本神社の隣の月照寺にもお参りしてみましょう。
人麿山月照寺は曹洞宗の寺院。
門前の由来書によれば、
月照寺は弘法大師空海が弘仁二年(811)にいまの明石城本丸の場所に楊柳寺を創建したのに始まる。
仁和三年(887)覚証和尚が大和国柿本寺より船乗十一面観世音菩薩を勧請し、同時に柿本人麿の祠を建て鎮守とし寺号を月照寺と改称。
天正三年(1575)曹洞宗に改宗。
元和五年(1618)明石城の築城に際し現在地に移築。
この人麿の祠、つまり人丸社が現在の柿本神社だと思われます。明治の神仏分離までは月照寺が別当となり人丸社を管理運営していたようです。
月照寺は奥行きがあまりありませんが、境内は手入れされていて心地よい感じがします。
月照寺の西側に木造の重量感のある山門が建つ。これは伏見城の遺構で明石城に移築され、明治を迎えて月照寺に移された。
この門から出たところに歌碑がある。
ともし火の明石大門に入らむ日や
漕ぎ別れなむ家のあたり見ず
帆をはる船のような歌碑。明石大門とは明石海峡のことなのでしょう。大阪湾のほうからみて明石海峡に沈む夕日を眺めている。「漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」と淋しさが募ります。
明石の散策記、続きます。