慈照寺銀閣と足利義政
こんばんわ、唐崎夜雨です。
日曜の夕べは映画をご紹介する予定でしたが、本日は予定を変更して室町時代の国宝建築を堪能してください。
京都市左京区にある東山 慈照寺 通称 銀閣寺 は、室町幕府八代将軍 足利義政の東山山荘を、義政の死後に禅宗の寺院とした。
義政の法号 慈照院 から寺号をとっている。
現在、慈照寺の庭園は国の特別史跡、特別名勝に指定され、東求堂と観音殿(銀閣)が国宝に指定されている。
しかし、足利義政は銀閣の完成を見ずに亡くなったそうだ。
慈照寺のWebサイトによると、
長享三年(1489)三月に観音殿、通称銀閣の立柱上棟が行われ、
十月に義政は病に倒れ、あくる年一月七日銀閣の完成を見ることなくこの世を去った、と記している。
足利義政は、永享八年(1436)六代将軍義教を父に、日野重子を母に生まれる。父義教は強烈な 恐怖政治 武断統治 をおこない反発多く、嘉吉元年(1441)に赤松満祐に殺される(嘉吉の乱)。
義教の長男 義勝 が八歳で将軍職を継ぐものの嘉吉三年(1443)に十歳で夭折。義勝の弟 義政 が家督を継ぐことになる。
文安六年(1449)義政は元服し、将軍宣下を受け正式に第八代将軍として就任。
この時代、問題は山積み。
近臣たちは私的な利害関係にはしり私腹を肥やし、母の重子も政治介入をするなど幕府内に混乱が見られ、そんなしわ寄せは領民に及び土一揆などが頻発。社会も混乱しており、義政の政策は思うように効果は出せずにいた。
もともと父義教の武断政治の反省からか、母重子は義政を文化教養に接するように育てた。父の暗殺、兄の夭折といった不測の出来事が続かなければ義政は将軍職に就くことなく出家させられていた。
五山僧とのつながりも、禅の修行というより芸術や文学などの文化的交流の側面が強いようだ。文化人的な義政は、幕府や社会の混乱に、厭世観を覚えたのかもしれません。
義政は康正元年(1455)日野富子を正室に迎える。だが子供が生まれずにいたので寛政五年(1464)弟義視を還俗させ将軍の後継者とした。
ところが翌年、日野富子に子どもが生まれる。名を義尚。
富子は義尚を将軍に就かせるべく山名宗全を頼る。一方後継者とされた義視は細川勝元の支持を得る。ここに将軍継嗣問題にそれぞれの積年の私憤が絡み合い、京の都は応仁の乱(1467~1477)へとなだれこむ。
応仁の乱ののち義政は山荘建設に着手します。
応仁の乱以前から山荘の構想はあったが、戦乱で頓挫した格好となった。しかしこの頓挫は義政にとってかえって美意識を磨く時期となったのかもしれません。
文明十四年(1482)東山山荘造営に着手。翌年に政務を義尚に譲りこの地に移る。まだ山荘は完成していませんが、いかに山荘を素晴らしいものにしようかという前のめりな熱意が感じられます。
文明十七年(1485)出家します。
三代義満の金閣はあきらかに権勢を他者へ誇示するものである。
一方の銀閣は庭園のすみっこにちょこんと置かれている。
銀閣とのコラボが美しい砂の芸術である向月台や銀沙灘は、室町時代ではなく近世の作らしい。
慈照寺庭園は池の周りを巡るようにできているが、歩き回るよりも方丈前からこの砂と銀閣をゆっくりと時間に身をゆだねて観賞するのが好きである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?