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尊良親王 恒良親王を祀る金崎宮(福井県敦賀市)へ参る~かみほとけ巡拝紀行vol.7~

こんばんわ 唐崎夜雨です
4月24日 敦賀市の気比神宮を
 参拝したのち
神宮の北 およそ1キロのところにある
金崎宮かねがさきぐうを参拝しました

神社のある金ヶ崎は南北朝時代に
 合戦がおこなわれた城跡がある
南朝は新田義貞を総大将として
 後醍醐天皇の皇子である
恒良親王 尊良親王 を奉じていた

国土地理院地図

金崎宮のご祭神は
 恒良親王〔つねなが しんのう〕
 尊良親王〔たかなが しんのう〕
いづれも後醍醐天皇の皇子
神社創建は明治になってから
 建武中興十五社のひとつ

親王の名の読み方を現代では
 恒良〔つねよし〕親王
 尊良〔たかよし〕親王
と 読まれることが多いようですが
神社の御祭神としては
 恒良〔つねなが〕親王
 尊良〔たかなが〕親王
と されています

金崎宮への石段

麓の金前寺横から石段をのぼり金崎宮へ
いまは周囲の埋め立ても進んでいるが
 もとは敦賀湾に飛び出た小さな半島
 三方を海に囲まれた天然の要害の地

石段を登り鳥居をくぐると右手に社務所
左手には休憩所があり敦賀の町が望める
 あれに見えるは北陸新幹線の敦賀駅

中央の横に長い建物が北陸新幹線の敦賀駅
金崎宮 鳥居そして舞殿

延元二年(1337)春三月
金ヶ崎城は足利勢によって落城する

後醍醐天皇の第一皇子である尊良親王は
新田義貞の子義顕ら将兵とともに
この地で自刃される
 親王御年27歳と伝わり
  新田義顕は御年18歳という

皇太子であった恒良親王は
金崎城を脱出するも捕らえられ京都で幽閉
翌延元三年に亡くなる
 足利方による毒殺説あり
 親王御年15歳と伝わる

金崎宮 舞殿そして拝殿
金崎宮 拝殿

この金崎落城の模様を『太平記』によれば

しだいに兵糧も乏しくなる金ヶ崎城内
 魚を釣り 海藻を取っては 飢えをしのいでいた
それでも足りなくなれば 諸大将たちの
 秘蔵の名馬 を殺しては 朝夕の食に当てていた

 このまま杣山城からの応援がなければ
 金ヶ崎城は十日ももたない
 そこで総大将の新田義貞は
 子の義顕に城を任せて
 弟の脇屋義助らとともに
 密かに金ヶ崎城を脱出し杣山城へ向かう
 
 新田義貞らは杣山城の瓜生氏らと
 金ヶ崎城を包囲する足利勢への策を
 講じるが多勢に無勢で武器も心細く
 なお二十日あまりが過ぎてしまった

そのころ金ヶ崎城では断食すること十日ばかり
兵士はもう手足も動けなくなっていた

 以前はかなりいた馬の数
 まったく見かけなくなったことで
 足利勢は一気に城を攻めることに

三月六日 足利勢の大攻勢に
城内の兵士は太刀を使う力もなく
 弓を引くべきさまもなし
すでに死んでいる者の股の肉を切って食らい
戦い続ける壮絶なありさま

新田越後守義顕は尊良親王の御前に参りて
「合戦はもはやこれまでと思われ我らは自害いたします
おそらく敵は親王さまに危害を加えるとは思われないので
このままにいらしてください」
 と申し上げると 親王は
「股肱の臣を失って何の元首であろうか
わたしも自害して 怨を黄泉の下に酬わんと思う
さて 自害とはどのようにするものか」
義顕 感涙を押へて
「加様に仕る者にて候」
と 刀を抜いて逆手に取り直し左の脇に突き立て
右の小脇のあばら骨二三枚かけて掻き破り
その刀を抜いて宮の御前に差し置いて
うつぶしに成りてぞ死にける
親王はやがてその刀を取り上げてみるに
柄口に血余りすべりければ
御衣の袖にて刀の柄をきりきりと押し巻せたまひて
雪のような御肌を顕わし
御心のあたりに突き立て 義顕が枕の上に伏させ給ふ

金崎宮の境内

金崎宮の御本社の隣に絹掛神社がある
金崎城落城の際に尊良親王に殉じて亡くなられた兵士を祀る
しかし300余名の人が亡くなられたというが
実際に名前が分かるものは十数名しかいないそうだ

絹掛神社

ご祭神は
 藤原行房 後醍醐天皇の側近
 新田義顕 新田義貞の長男
 気比氏治 気比神宮の大宮司で金崎城主
 気比斎晴 氏治の子 恒良親王を海上脱出させてのち
  再び城に戻り父とともに自刃
 瓜生保 杣山城から金崎城へ救援に向かう途中
  北朝軍の待ち伏せに遭い戦死
 瓜生義鑑 
 里見時成 
 里見義氏
 由良具滋 
 長浜顕寛
 武田与一
 以下殉難将士

また境内には朝倉神社もある
パッとみたところ神社のように見えなかった

朝倉神社

金ヶ崎城は戦国時代には朝倉一族の城があった
朝倉神社には朝倉氏六代と一子の御霊を祀る

金ヶ崎案内図

金崎宮より整備された小径を進むと
さらに敦賀湾が一望できるところへ
行けるようだが 
惜しくもこの日は
 ヒザの調子が芳しくないので
 神社より高いところへ上ることは 断念 それでも久しぶりに日本海を眺める
天気が芳しくないので
 雲だか霧だかに包まれているが
  それも一興

それでもいくらか望める敦賀湾

これにて金崎宮から敦賀駅へ戻る
ヒザの痛みは大したことないが
 無理はしない

もっとあっちこっち見て回ろうと思ったが
さっさと京都の実家に帰ることに決めた

帰りは特急ではなく
 敦賀から新快速で山科へ
  山科から地下鉄で京都市内へ出た

いつ雨が降ってもおかしくない空模様だが
雨には降られなかったのは御神徳か

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