タビは若いうちに行け。

「タイは若いうちに行け。」

20世紀末の「タイ航空」のコマーシャルの名セリフ。そんな煽りのキャッチコピーに踊らされるように、タイは若いうちに行くが吉だ。

『百聞は一見にしかず。』


数多の楽しそうな旅系HPがあるのもの結局は自分で見て歩いてみるしかない。旅の生々しさは「若さ」や「意識高さ」と親和性が高い。「未熟さ」が発する飽和した体温と「東南アジア」が保有する猥雑な熱気はよく似ている。

1990年代後半。アジアの旅の出発点・終着点が「上海」や「香港」から完全にアメージングタイランドの「バンコク」に移行しようとしていたこの頃。

そんな旅人が大好きなの天使の都に戻ってくると、緊張の糸と財布の紐は緩んでしまう。あとズボンのチャックも緩むとか緩まないとか。それについては後日考察することにする。

いやっほう!!!わおわお!
ひゅーひゅーだよ!

そんな浮かれた長期旅行者たちの真の心の叫びはさておき、夏休みの終わりのバンコクの安宿街のカオサンロード周辺はなにかと忙しい。

世界各国の前後不覚な20歳前後の旅行者で溢れかえっている真夏のカオサンロードのスピード感はハンパない。しかもみんな若葉マークなのにカスタムチューン無しにかなり良いスペックで、よりによって片側一車線ときたもんだ。楽しさが満開してウェイウェイが止まらない。(意味不明)

今まで無職なりの速度で旅をしてきた人達が、この時期のバンコクに突入してしまうとその速度差に面食らってしまう事が多い。ずっと煽り運転される羽目になる。うかうか路肩に寄せて沈没することもままならない。

旅での衝撃を吸収しきれないほどの若さも困りものだけど、衝撃を受け流す術を見につけてしまった老練な旅人に比べれば、なんとなく旅の日々が過ぎてゆくような勿体無い事なんて若者立ちには一秒たりともない。

むしろ、若いという事はそれだけで輝かしい事だし、若いというだけで女性はドキドキする良い香りがするものだ。●2点

むしろ「二十歳未満海外一人旅禁止組合」の私でさえ、本当は旅は若いうちに出たほうが良いとさえ思っている。

どんなに遅くとも25歳くらいまでの若いうちに当ての無い旅に出て、そんな流浪の旅の美味しいところだけを知り尽くしたら、それらをスパイスに実生活の立ち位置をのんびりと定めてみたり、履歴書に書いたり、面接でアピールしたりして意識高い系を極めてゆくってな感じが「旅勝ち組」のうまいやり方と言われてたり言われてなかったり。

だいたい、バンコクあたりに沈没している中年のパッカーモドキなんて、多かれ少なかれどいつもこいつもロクデナシばかり。彼らが自慢気に話している旅の経験談は旅の参考になりはしても、旅の手本としてはまったく役に立たない事がほとんどだと言われてたり無かったり。

若者との溝は深まるばかり。

何かと更新が遅れがちな私の旅日記ではあるが、この場を借りてバンコクの若者バックパッカーを猛烈にリスペクトしておきたい。リスペクトしておきたいがノマドやらノマノマウェイやらフォトジェニックやらインスタ映えやら意識高い系やらダ〇ッポやらタ〇イクやらとはなかなか相性が悪い。

「いや~フクちゃん。もうさ~、俺らみたいな昔ながらの本当の旅人はカオサンはどうもね~。でしょ?昔は良かったよね~。」

旅人歴15年の自称ルポライターのYさんは、私にそんな風に話しかけてきたがチョット待て、私はアンタみたいに影でコソコソ言ってるくせに、若くて何も知らない学生旅行者くんなんかを毎晩捕まえては、延々とつまらない旅講釈をしたりしないし、若い女性パッカーに無理やりルームシェアをさせた挙句、頼みもしないのに全身マッサージをしようと体に触れてぶん殴られたりしないので「俺ら」なんて言葉で共犯にして欲しくないと思った。

しかし、何だ?いまどきの旅先での若い日本人の女どもは!?ともついでに言っておこう。どいつもこいつも下着姿でウロウロして!いくらタイが暑くて開放的だとしてもそりゃねーだろ?お前らはストリートガールか?

「いやー違うんすよ。フクさんは知らないかもですけど、今年の夏は日本ではキャミソールってのが流行ってんッすよ。渋谷の街もあんなエロい女の子ばっかりっすよ。」

1998年の夏休みを利用してタイにダイビングに来た某大手新聞社内定済みのTくんはそう教えてくれた。ついでに私が「シミーズ」とか「スリップ」とか呼んでいるものが「キャミソール」などギャル臭い呼称になっていることにも丁寧に教えてくれた。その丁寧な説明具合にTくんはかなりの「キャミソールマニア」でもあると確信した。

 え?!マジでみんな普通に路上でシミーズにミニスカなん!?

「フクさん、だからキャ・ミ・ソー・ルですってば!」

あぁ、、、日本の夏、金鳥の夏。

今年の夏が終わりきる前にちょっとだけ内緒で日本(渋谷)に帰りたくなった。●2点

1998年頃までのバンコクの東南アジア最大の旅人街「カオサンロード」は、昨今みたいにタイ人が気軽に立ち入れるようなお洒落スポットではなかった。

むしろ六本木と新大久保と御徒町と天王寺周辺を足して6で割って、ナンプラーと排気ガスをぶっかけまくって白人仕様に大味にしたような場末で陽気な健全で魔窟なスポットであった。

相変わらず説明が回りくどいとの事なので簡単に一言でいうと「ドヤ街」である。

朝になると、何処かからミニバスで運ばれてくる「職業物乞い」が路上で無数に座り込み、日が暮れるまで旅行者の行く手を塞いでいたし、通りの日陰のいたるところには、皮膚病を患った無数の野犬たちが所在無さ気に徘徊して不衛生極まりなかった。夜になると今度は別のミニバスで大挙して「オカマのおねにーさん」の街娼がやってきて、路上を行き交う旅人達に色目を配り、その脇ではプッシャーと呼ばれる非合法薬品の売人たちと、詐欺師や、美人局たちが獲物を求めて徘徊していた。

翌朝にもなると、カオサンの一角にある警察署の前には前日にトラブったツーリストがドラクエ販売日当日よろしく長蛇の列を成し、帰ってくるはずも無いパスポートや財布についてツーリストポリスの窓口を賑わせていたし、朝08:00頃に警察署の前から出る護送車には、昨夜までに捕まったタイ人にまぎれて、手錠をかけられていっしょに護送車に乗せられるツーリストも目を引いた。

ちょうどこの頃に、日本人宿として名高かった「フレンドリー・ゲストハウス」で連続盗難事件が発生し、捕まえてみれば同宿の日本人の挙動不審な30過ぎのおっさんだったり、その事件が落ち着いたと思った矢先にはまた近所の安宿のドミトリーに深夜、銃を持った強盗が侵入し旅行者の貴重品を根こそぎ略奪していったというような事件などが続発していた。また、あちこちのゲストハウスの掲示板には1997年にアフガニスタンで行方不明になった日本人のポスターが到る所に貼られていた。ポスターの中の彼の明るい表情の写真を見て息苦しくなった事を覚えている。

日中から独り言をブツブツ言いながらコンビニを出たり入ったりしている視線定まらぬ旅行者が唸っている横で呑気にフローズンシェイクを飲んでいる女子大生パッカーがいたり、暗がりの中で必死にレディボーイを口説いている白人親父がいたり、寝静まったホテルの一室でいきなり叫び声が響いたり、仲良くなった売春婦からアイス奢ってもらったり、屋台でたまたま一緒になった初老の日本人から唐突に「お金貸してもらえませんか?1000バーツでいいんですけど。」と言われてみたり、両替商でお金を誤魔化されたり、いきなり警察が隣の友達の部屋に踏み込んできたと思ったら、全く身に覚えの無いベッドの下からヘロインが出てきて大騒ぎになったり、、、そんな事の全てがわずかカオサンロードの近辺一キロ四方の中に凝縮されている。

そんな空間の全てが私を惹きつけた。

「今度は●●ゲストハウスで旅行者が死んだ。」、、、という噂もワンシーズンに一度以上は必ず耳にした。それが例え真偽の分からない出所不明な噂だったとしても、私たちは『それは事実だ』とまるで自分の事のように、諦めにも似た確信を抱いてそんな話にも耳を傾けた。

そんな物騒な場所に何故向うのか?と問われる事もある。

理由と言われても困るのだが、なんてったって宿代が安いし、交通の便は悪いけど、メシ屋や、チケット屋、外国書籍の古本屋も豊富で、何かと情報を集めるのに至極便は良く、夜遊びするところも手近にあるし何かと便利なところだろうか。最近ではそうでもなくなったが00年代までは間違いなくそうだった。

行ってみれば分かるが、実際は別にそれ程物騒でもない。

だけど、マスメディアでしか情報を知らない人たちにしてみれば、そんな場所にいる事自体が大冒険なわけで。

ウチの親父なんかは、未だにタイの人は「右手でご飯を食べる」と思っているし、雨が降ったらお休みで、風が吹いてもお休みだと本気で思っている。

バンコクで出会った日本の19歳の女の子は、「東南アジアなんか女の子が一人で行ったら盗られて犯されて殺されるから絶対ダメだ!」と猛反対だったお父さんを「三日に一回はパパに電話するし、毎日手紙書くから。」となんとか説き伏せて東南アジア一ヶ月の一人旅行に出かけたと言っていた。 毎日手紙を書くってーのがよく分からんが、あるとき彼女がカンボジアに行っている間に腹痛をこじらせ一週間電話も出来ずにバンコクにヘトヘトになって戻ってきた。まぁ、電話事情のよろしくないカンボジアでのことだから、私たちにしてみれば連絡取れないことも病気もしてたし仕方ないと思うけど、その彼女が一週間ぶりに家に電話をしたところお母さんが電話口に出たらしく「パパは心配して寝込んで会社休んでるわよ!明日、バンコク行きの飛行機チケット買うとこだったんだから!」と怒られてショボーンとして戻ってきた事もあった。

旅は若いうちに行ったほうがいい。

行った方がいいが、身内にしてみれば得体の知れない土地に当てもなく行かれるなんてまったく堪ったもんじゃないだろう。

私も自分の娘(いないけど)が「一人で海外一人旅に出たいの!」なんてほざいたら、行きたくなくなるような旅の怖い話を思いっきり吹き込んで精神的に追い詰めるだろうし、それでも行っちゃったら、行く先々の私の手のものに娘(いないけど)の動向を逐一伝えるようにと、娘に手を出す不埒な輩には闇から闇へチャオプラヤーの底へと消えてもらう事になるだろう。

むしろ私が会社を辞めて娘(いないけど)と一緒に生き別れになった母親(いないけど)を探す旅にでるって手もある。もちろん旅先で、頼りになるパパを演出することは忘れない。

、、、まぁ、若い娘を持った父親は多かれ少なかれこんな感じだろう。

毎日手紙の彼女も「もう、心配かけちゃったからパパに電話かけたくないなぁ、、、予定切り上げて日本に戻ろうかなぁ。」と沈んでいたので、私たちが「じゃあ、お父さんに顔を合わせ辛いなら、このまま一緒にアジア横断する?」と誘ってみたところすっかり彼女は迷ってしまったようだ。

 じゃあ、俺が一緒に電話してあげるよ「はじめまして!おとうさん!」って。

そう、私が言うと彼女は大きく首を振って、「やめてください!」と言うと、「さっきはママとしか話せなかったから、もう一度パパに電話してきますっ!」と走ってどこかに行ってしまった。

「なんだよー、結局似たもの親子じゃーん!(笑)」

「フクさんも、あんな事言って脅しちゃだめだってばー!(笑)」

「でも、いまどきあんなに純情な子も珍しいよね!(笑)」

そんな他愛も無いことで、毎日みんなで腹が捩れるほど笑い転げていた。

日本人が集まりがちだったバンコクのチャイナタウンのホテルエリアには、昔から何度行ってもあの虚脱感が馴染めず、何かと騒がしいカオサンに足が向いてしまっている。そこでは自分と同じように世界中から集まった「不良外人」が「健全旅行者」に混じっていつまでも遊び呆けていた。そんな空間に自分も身を置く事で『旅の不安感』のようなものをもみ消そうとしていたのかもしれない。

1998年当時、この光溢れる『天使の都』と呼ばれるバンコクは、世界でも有数の世紀末という言葉が似合う場所だったと思う。

光と闇との境界にこそ、最も深くて濃い闇が在るように。

緩く淡い旅の日常の中。

気がつかない内に私もまた、いつのまにか腰まで旅の闇に浸かってしまっているように思えた。

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