#042 編集長は辛い仕事なのだ 鶴原俊彦が五輪真弓になってしまった話
『万年筆談義』の製作中に万年筆研究会WAGNERの森さんと画家の古山さんと何度か打ち合わせをした。裏話を一つ。
第2回目の打ち合わせは原稿締め切り3週間前の日、神楽坂でビールを飲みながら始まった。暑い日で、ビールの美味しかったこと。
「ところで、原稿の締め切りは前回の第1回打ち合わせで確認しました通り、今月の末ですから、よろしくお願いします」
と私が言ったら、一瞬の沈黙の後、2人が一斉に吠え始めた。
「そんなの聞いてないよ」
「そうだよ、初めて聞いたよ」
「だからお前は駄目なんだよ。フェルマー出版社が伸びないのはお前の所為だよ。社長解任だな」
「そうだ、そうだ、社長解任だ」
2人は目の前のビールのグラスを持ち上げてグビッと飲んだ。
「だいたい、会社に電話がないのがおかしい。社長なのにスマホを持っていないのもおかしい」
「だから日本の教育は駄目になったんだ」
「本が売れないのはお前の所為だ。家の中ばかりにいるからいけないんだよ。東京に出てこいよ。絵画教室にでも通えよ」
ちょっと待て。どうして私が2人にここまで扱き下ろされなければならないのだ。あんまりじゃないか。一人で孤独に耐えながら家で編集作業をやっているのに、それはないよ。締め切りの件は文書で案を提示し、先の打ち合わせで確認をとったじゃないか。私は声には出さず、じっと耐えた。
ビールを飲みながらの打ち合わせである。しばしば、このような話になる。ビールがワインに変わった。
この3人のうち、一番にボケるのは誰かという話になった際、健康面の話となり、ザ・ブロード・サイド・フォーのメンバーの鶴原俊彦さんの話になった。ザ・ブロード・サイド・フォーは1964年に結成され、1966年『若者たち』が大ヒットした。黒沢明監督の息子の黒沢久雄氏がそのメンバーのボーカルだった。古山さんが主宰した「アファンの森に集う会」で鶴原さんには何度かライブをやってもらっていた。鶴原さんの生の歌声には心がしびれる。毎回、うっとりと揺り籠の中にいるような思いになったものだ。
「鶴さんて誰?」と鶴原さんと面識のない森さんが私に聞いたので、私は応えた。
「鶴さんて1964年にデビューしたザ・ブロード・サイド・フォーのメンバーで、この曲を歌った人。『君の~♪行く道は~♪ 果てし~なく遠い。だのに~何故~♪・・・』ね、森さんも知っているでしょ。曲名はね、えっとぉ、『旅人よ』だ」
「旅人よ」と口にした瞬間、私は違和感を持ったが、その時、隣で聞いていた古山さんがニヤリと笑った。
「だからお前はボケてんだよ!」
「お前、大丈夫かあ?!」
「退職してから頭を使ってないんじゃないの?」
古山さんは散々私を扱き下ろした後、ゆっくりと一息吸って、C.W.ニコル風に言い放った。鼻の穴がヒクヒクと小刻みに震えている。
「あのね! 鶴さんが歌ったのは『旅人よ』じゃないの! いいかい、鶴さんが歌ったのは『恋人よ』だよ!! 全くもう。しっかりしろよ!」
しかし、鶴さんが歌ったのは『若者たち』である。『恋人よ』は五輪真弓だ。
かくしてブロード・サイド・フォーの鶴原俊彦氏は中谷・古山の所為で五輪真弓になってしまった。
フェルマー出版社の編集長は辛い仕事なのだ。