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#002 機内にて (フェルマー出版社 発足秘話 2/4)

 成田空港。旅の安全を祈ってビールで乾杯する。これからの旅への期待感で心が高揚していく。

 機内では、画家の古山浩一さんと神戸の鞄専門店ル・ボナーの松本佳樹さんと3人で並んで座った。この3人が集まれば鞄の話題となる。
「古山さんの『鞄が欲しい』は良かったなあ。続編は出さないの?」
「あれは大変だったなあ。苦労した割には原稿料が少なかった」
「へえ〜、そうなんだあ」
「鞄職人がどのような思いで鞄製作と取り組んでいるかとか、革の話とか、ユーザーが鞄を求める際のワクワク感とか、実際の使用感とか、そのような部分まで書かれている本、ないよね」
「そうだね。メーカーの歴史や鞄の商品的説明ばかり。まるでカタログ集のような本ばかり」
「カタログに金を払っている」
「俺たちに権力と財力さえあれば、スゴイ本を作るのになあ」

 ル・ボナーの松本さんは鞄職人だ。革の話から鞄作りまで、専門的な話が次々と出てきて実に面白い。
「それ、面白いなあ」
「書きたいなあ。専門家の知見を記録に残したい」
「だいたい、文化人類学的に鞄を論じたものがない」
「鞄が人類にとって何だったのか。どのように発展してきたのか」
「鞄職人はどのように技術を身につけているのか。鞄を作る技術とはどのようなものなのか」
「鞄とは一体何だったのか。その体系を明らかにしたものがない」
「どこも、それをやらない」
「いままとめておかなければ、鞄文化がますます曖昧になってしまう」
「それにしても、出版社の原稿料は少ないからなあ」
「出版社は儲からない本は出してくれない。学術的なものは無理だな」
 3人は思いつくままの会話を続けた。

 機内での時間は長い。私と古山さんはワインを飲み始めた。そして、話が盛り上がるにつれ、ワインの量は増えていった。
「そうだ、俺たちで出版社を作ろう。内容も自由に設定できる。それに、儲けは全部、俺たちのものだ」
「いいねえ。書きたいことを自由に書くことができるというのはいい」
「俺たちは巨万の富を得ることができる。億万長者になれるぞ」
「いやいや、利益は二の次でしょ。利益よりも納得できる本を作る方が価値がある」
「仕事をしてお金を得るのではなく、お金を払って仕事をするんだ」
「いままで世に出ていないような画期的な鞄の本を出そう」
「困難なことが多そう。でも面白そう」
「やろう、やろう。面白そうだ。人生は一度しかない」

 客室乗務員が笑顔で近付いてきた。しかし、少し顔が引きつっている。
「恐れ入ります。他のお客様の迷惑になりますので、もう少し声を小さくしてお話しください」

 「すみません」と謝り、それからは小さな声で話したはずだったが、客室乗務員から、その後2度も注意を受けた。我々の高揚感は半端ではなかったようだ。

 こうしてフェルマー出版社が立ち上げられ、編集長を私がやることになった。しかし、これは居酒屋談義の戯言であり、まさか現実にフェルマー出版社を発足させて書籍を出版することになろうとは、そのときは夢にも思わなかった。

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