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#007 『鞄談義』 まえがき

 私は、素敵な鞄を持って歩いている人を見ると声を掛けたくなる。 それが、長年愛用しているらしく、光沢が出ていたり擦り切れていたりする鞄であったりすると堪らない。 更に、持ち主と鞄醸し出す雰囲気がよく、かつ体よく使いこなしている姿だったりすると、男女・年齢に関係なく、うっとりとしてしまう。 「その、鞄いいですね」「どこの鞄ですか」「何年くらいお使いですか」 「鞄の中はどうなっているのですか」「どんなものを入れておられるのですか」 こんな質問をして語り合いたくなる。つまり、鞄談義である。
 そして、この人はどのような人生を歩んできた人なのだろうということまで興味が湧いてくる。 持ち主の人生観なり社会的ポジションを勝手に想像してしまったりする。 人生は一筋縄ではいかない。 いろいろと紆余曲折がある。人は悩みながらも生き抜いていく。 喜びや感動も多い。そんな生き様をも想起させるような靴を目撃したときは、食事にでも誘いたくなる。
 しかし、声を掛けたことは一度もない。

 私のような平凡な人間の場合でも、今までなにやかやとあった。その時々、思えば、 傍らには常に鞄があった。 鞄に入れる物は年齢や状況によっていろいろと変化してきたが、それらを鞄に入れる時、自分を鼓舞した。明日はきっとうまくいく。鞄に支えられながらの日々であった。
 今の私の鞄の中には、一生理解することのできないであろう、ある数学の本と、それと闘うためのノートが入っている。 と言っても私は数学者でも専門家でもない。 数学を生業として使ってはいるものの、趣味で数学を学んでいる程度である。ところが趣味とは言っても、数学との取り組みでは、楽しいことより忍耐を要求されることの方がはるかに多い。時に、苦しい。では何故、数学と取り組むのか?  実は、自分でもよく分からないのだが、その理由として最近思うのは、真理の魅力、そして、それに近づくことの魅惑なのかなということ。数学の真理を掴むことは困難であるが、真理に近づくことはできる。ぼんやりと霞んではいるものの、真理らしきものが時々チラッとする。それは魅惑としか言いようがない。人生の残り時間の中で、そんな瞬間が一度でもあればいい。それは、きっと、例えようもないほど美しいはず。私の場合、そんな夢や希望を持ち歩くために、鞄がある。

 古山浩一さんは画家で、今まで『鞄が欲しい』『カバンの達人』を著している鞄研究家でもある。文化人類学的見地で鞄を研究していて、鞄の背景にいる人の存在を忘れることがない。その姿勢に共感を覚える。その古山さんと一緒にスペインに行った際の機中で鞄談義をふんだんにした。目指すマドリッドとトレドで絵を描く。夢のような旅が始まる。この高揚感の中での鞄談義。赤ワインも手伝い、鞄の本を年に一冊のペースで出版するという話に発展した。 古山さんは口にしたことは必ず行動に移す人である。必ず実行するであろう。
 私は、この鞄談義シリーズの中で、執筆者としても読者としても、鞄そのものは勿論のこと、人の生き様に触れることができることを期待している。 生き様と言っても大袈裟なものではない。 日常の連続こそが生き様なのである。その日常の連続を生きるために鞄がある。 そう私は思っている。
 日常の中で鞄が持ち主とどのような関係にあるのか。また、その人は何故その鞄をオーダーしたのか。鞄職人はどのような思いを持ちながら鞄を作っているのか。 鞄職人、そして、鞄職人と持ち主との関係にも興味がある。この際、鞄の魅力を思い切りはき出してみよう。人生の数ほどの鞄の魅力はあるはずである。
 この鞄談義シリーズでは、文字通り、鞄の話題に限らず鞄を超えたものに触れることができるのではないかと思っている。かなり脱線もあるかもしれない。何しろ、自由人ばかりが集合した。それぞれが一家言ありそうな人ばかりである。御容赦をお願いしたい。

「その鞄、いいですね」
「鞄の話、聞かせてもらえませんか」
さあ、鞄談義の始まりである。

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