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やりきれなさと、飛び跳ねる『精霊の王』

北海道の由仁町に「ヤリキレナイ川」という珍名の川があります。

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アイヌ語の意味としては、「魚の住まない川又は片割れの川」だそうです。

「やりきれなさ」を感じる、ふとした瞬間に、どんな風に乗り越えてゆこうかと考えていたときに、以下の本にはなんだか力をもらいました。

以下は、私が約一年前に、「北海道子どもの本連絡会」の機関紙に寄稿されていただいたものです。

      *      *      *

宿神=シャグジ。
国家誕生とともに埋葬され、忘れられた精霊である。
技芸者だけは、この後戸の神を創造の源として敬愛し続けた

そんな文言が裏表紙におどる中沢新一著『精霊の王』。
冒頭に、平安時代の公家が好んだ蹴鞠の例が出てくる。

蹴鞠の精は、いつもは林の中の樹木を住処としているが、人が鞠を蹴り始めたのがわかると、枝を伝ってするすると蹴鞠の庭にやってきて、鞠の蹴り上げられている空間にふうわりと降りてくる。鞠精が降りてくると、人々の身体は知らず知らずのうちに敏捷に軽々と動き出すようになり、鞠の蹴り上げられる空間にはとびはねるようなリズムが満ちあふれる

中世において、こうした宿神は芸能の神のような存在でもあり、世阿弥ら芸能者はこうした精霊を敬愛したという。宿神は芸能と技術の領域を守り、そこに創造力を吹き込む働きをしていた。彼らは、若々しく荒々しい生命力がみなぎる「創造の空間」(=後戸)に棲むという。
 そんな空間に潜み、自分自身を激しく振動させ、歌い踊る身体の芸を持って霊力の発動を促そうとした神=精霊の存在を、中世日本の人びとは「後戸の神」と呼んだ。

以前私が野外学校で見かけた男の子。大人の言うことを全く聞かず走り回る、元気のかたまりのようなその子が、自らふと絵本をひらいたとき……、その変わり様は魔法がかかったように思えた。静かに夢中で読んでいたが、本の中ではきっと精霊たちと跳びまわっていたのだろう。

そんな精霊がいるのなら、姿は見えなくとも小声で尋ねてみたい。

今の世の中の棲み心地はいかがです?
仮想空間はどうも棲みにくくてさァ……

とボヤく、良い意味で時代おくれの精霊だっていて欲しい。

ネット上は飛び跳ねづらいんだよねぇ

――そんな不器用でまっすぐなシャグジも大歓迎だ。

オニヤンマ、かたつむり、つばめ、イナゴ――日常の隙間で心弾ませてくれる生き物たちは、年々姿を見せなくなってきていると聞く。
そんなメチャクチャな環境の中に生きざるを得なくても、物語が誰かによって語られるとき、本を静かにひらくとき、せめてシャグジだけは現れてほしい。一緒に跳ねて、弾んで、ハハッとわらってほしい。

自分もそんな物語を紡いでいけるだろうか。紡ぎそこなった、ぐちゃぐちゃな糸玉でも、鞠だと勘違いして蹴って遊んでくれる子どもたちもいるだろう。
そうしたら待ってました! とばかりにふうわり降りてくるものがある、きっと。


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