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糞フェミでも恋がしたい

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能條まどかによる実体験に基づいた糞フェミ恋愛小説「糞フェミでも恋がしたい」の連載まとめ
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2018年5月の記事一覧

糞フェミでも恋がしたい (その33)

私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミにも母親はいる、糞めんどくさくて、糞嫌味で、人当たりは温厚で物腰柔らかなくせに、したたかで、芯が強くて、負けずぎらいで、意地っ張りで、でも意地っ張りであることを誰にも見せない狡猾さと、それを支える努力と鍛錬を日々欠かさない、どうしようもないほど世知に長けた、妖怪のような母親だ。 「あら、まどかちゃんめずらしいのね、日曜日なのに家にいるの。」 「うっせーよ試験なんだよ。」 「またそんな、学業なんて徒労よ徒労。懲りない子ねえ。」 「だ

糞フェミでも恋がしたい (その34)

私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミだって好きな男の子供が生みたいのだ、というか、女にとって好きな男の子供が産みたい以上の欲求などない、それは、男にとって好きな女に子供を産ませたい以上の欲求などないのと同じだ、だって、自分が惚れた男、もう、好きで好きでたまらない男、その男の子供を産むのだ、うれしくないわけがない、それも、女の子ですらうれしいのに、もし男の子だったら、好きで好きでたまらない男のミニチュアが手に入るのだ、自分のものになるのだ、どれだけ可愛がっても許される形

糞フェミでも恋がしたい (その35)

私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミでも男の匂いが好きだ、というか、男と女が距離を縮め、どんどんと近づいて行き、最終的にどうなるかといえば、素っ裸で抱き合って、キスだのフェラだのに夢中になり、穴にぶち込み、体液を注入し、お互いの肉体のなにもかもを貪るのだ、そのとき、もっとも露になるのが体臭で、つまり匂いで、男と女はどれだけ気持ちが近づこうが、最後の最後でお互いの体臭に安堵しなければ、耽溺しなければ、欲情しなければ、添い遂げることはできないのだ、だから、男と出会って、ま

糞フェミでも恋がしたい (その36)

私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミでも自由になりたいのだ、なりたいというより、なるべきだ、いや、本当はすべての人が自由になるべきなのだ、しかしなれない、皮肉なことに、私を含めて糞フェミは、それを体現している存在だ、自由になりたくてもなれないのだ、それは、価値観の狭間に押し込められ潰されてしまったがために、逃げ場を失ってしまったがために、従順ないい子であることを己の中で義務づけてしまったがために、自由は、手の届かないところに行ってしまったのだ、哀しいかな、自分でそれに

糞フェミでも恋がしたい (その37)

私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミでも恋がしたかったのだ、そして、恋のチャンスは、立場や性別や社会的諸々に関係なく、誰にも巡ってくることを知ったのだ、それは唐突にやってきて、素っ気なく去ろうとするのだ、だから、必死でつかまえなくてはダメなのだ、恥も見栄も外聞も、なにもかも投げ捨てて、必死でつかまえなければ、すがりつかなければ、去ってしまうのだ、だからわたしはなにもかも捨てて、必死で、見るも無惨に、見るも正直に、見るも素直に、自分自身の芯の部分だけになって、素っ裸にな

糞フェミでも恋がしたい (その38)

私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミでも処女卒したいのだ、自分が愛して愛して愛しまくっている雄の、猛って、膨れ上がって、熱り立った、太い逞しい男性器を、欲望のままに肉穴にぶち込まれて、初めての膜を破られたいのだ、穴の奥底まで蹂躙されたいのだ、何もかも奪われて、心の底から屈服したいのだ、服従したいのだ、隷属したいのだ、そして、有無を言わさず射精され、子供を、遺伝子の結晶を、孕みたいのだ、孕まされたいのだ、この、私の子宮の中に、雌が雌として生きるということは、そういうこと

糞フェミでも恋がしたい (その39)

私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミでも幸せになれる、なれるのだ、それはもはや疑いようもない事実なのだ、それは私がいま証明しつつある真実なのだ、私の身体と、心と、うちなるすべての私が、肯定する、まったくもって、自然の摂理さだめる仕組みに従う、つまりは、わずかも間違いようのないほどに、輝き、光を放つ、まばゆいばかりの、真理なのだ。 いま、私と綺羅君は、全身で、全霊で、全裸で、その真理に足を踏み入れる、すべてのエネルギーを燃やして、欲望をぶつけあう、キスで、粘膜で、肉で