現代詩論

 詩で一番避けるべきなのは明らかに「クリシェ」である。
 ロバート・マッキーの創作論についての本で初めて読んだのだが、創作する人においては常識であるっぽい。

クリシェ(フランス語: cliché、発音: [klɪ'ʃe])は、乱用の結果、意図された力・目新しさが失われた句(常套句、決まり文句)・表現・概念を指す。

 恐らく、現代詩が生まれた当初は「祈り」「少女」「永遠」「呪い」「虚無」「内臓」「子宮」などは目新しいものだったのだろうが、「虚無主義のコンクリートの中で無垢に祈り続ける少女」という現代人の「原風景」に合いすぎていたため、乱用しすぎてみな食傷気味になってしまった。ネットミームでいう「パターン化されたエモ」に近いだろう。特に「祈り」の乱用は酷く、虚無主義が常態化した現代において「祈り」が乱用される現象自体が興味深い。
 しかし時代を吸っていない詩など屑同然であるし、僕の思想としても「虚無」や「霊性」などは重要なキータームであるので、それをクリシェに陥らないように表現するしか誠実な表現はできない。
 虚無主義の突破は「不思議」という概念であると確信しているので、不思議を詩にどう落とし込むか。

 「読んでも読まなくても変わらない詩」が多すぎるように思う。何も残らない、センスだけの詩。村上春樹的なイヤなものを感じる。キザなだけで、読後に何も残らない。読んでも読まなくても同じ本。

 時代への感受性のない作家は、もちろん良い物を作れない。近代が「歴史」というものを発見してしまった以上、僕たちは歴史主義的な思考からは恐らく逃れることができない。
 時代の空気を大きく吸って、しかもクリシェに陥らないようにするには、やはり「思索」と「詩作」を並行して行う他ないように思われる。現代日本という大地から栄養を取り、己の意識の中で錬金術を行う。
 
 ハイデガーは「存在から言葉が送られる」と書いているが、これは瞑想的意識からすれば当然なことで、もっと正確に言えば「言葉が言葉をする」だろう。「私」が言葉を所有しているのではなく、私は言葉に所有されている。奇を衒った比喩ではない。「何も考えない」と意志を固めて眼を瞑ってみると、それでも言葉は湧き出てくる。言葉は脳の分泌物であって、私のコントロールの内にいない。

 それゆえ、私ができることは「本を読む」「時代の空気を吸う」「瞑想(錬金術)」の三つである。

 言葉が良い言葉をするように、祈るばかりだ。

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