影をなくしたヒト。 どうするの 

Note 見てたら「影を亡くした」ヒトがいる。
どういうことなんだろう。
もうひとりの自分が、消えたということなのか、、、
確かに自分のなかに、もうひとりの自分という存在はいる。
それとも、かくれる場所を失ったという意味、、、
実在の感覚を失った、、、
本当の自分ではなくなった、、、
真意は、わからない。

いつの頃からは、忘れたが、正直、自分の実体と呼べるようなものが、
年月とともに、薄くなってきているような気がしている。
子供のころ、学生のころ、社会人になって張り切っていた時代、
そんなこと微塵も気にせず、実体そのものだった、ような気がする。

その時代、その環境というステージで、
自主的にだったのか、選択せざるを得なかったのか、
たまたまそうだったのかも、忘れたが、
ともかくも、演者として身をもって演じる存在だった。 
しかし、疑いもせず、動き、働き、寝食の演技を重ねるうち、
演じることが、空気のように軽いものなってしまい、
今では、安心できる磐石の自分が、あるのかないのか、
どこにあるのか、元々なかったのかさえ、
わからなくなっている。

生きて体験してきた確かだった出来事も、大きな記憶の渦の中に取り込まれ、膨大な数の中のひとカケラになり、
自身自身も小間切れになり、ちりぢりになってしまったように思える。 
記憶に頼り、記憶をたどることさえ、よわよわしい。
今では、生きることに必要なこと、必要でないことの判断すら、記憶、知識は、支えてはくれない。
今夜も、薄暗い、深海をただよっているようだ。
安心立命の磐石を、どこに感じれば良いのだろうか。

この見える世界は、あっちの見えない世界と密接につながっている、という。
この相対的世界は、そっちの絶対的世界に浸透している、ともいう。
全ての全体が、茫漠として、頼りなく漂っているようだ。
こんな小さな思考さえ、遥かに越える大きな宇宙のなかで、 
括れば、あなたもわたしも、同一のカス、同一の点となるのだろう、、、

この曖昧さ、このカオスに、
手がかりのない、この非把握性の中で、
ずっと、抜け出せず、浸り、ゆれ続けなければならないのか。
それって、生きてることなのか、存在してることになるのか、、、

今、ここで、考えるということをしてよいのか、、、
考えることはできるのか、、、
考えはじめてもよいのか、、、
今をどうする、、、
未来をどうする、、、

すべてのヒトが、相対性がない絶対世界では、
ひとつとなり、同一の存在とするならば、何も心配ないじゃないか、
ということも言ってかまわないのか、、、

ならば、こうなら言ってもいいのだろうか、
相対的なものは、次第に消えていき、
あなたは、次第にわたしへ収束する。個性を超えて、、、
わたしは、あなたへ親和していく。性別をこえて、、、

これが、生きることの真実なら、
何も心配する必要は、ないじゃないか、、、

あとは、天与の想像力で、あらためて夢を描けばいいじゃないか、、、
想像することは、創造することの第一歩、という。
描くことは、完成することの半分以上、ともいう。
わたしは、これで行く。
これ以外にない、と思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?